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へんろ道に咲く花1輪・・・そんな花になりたい・・・
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今回程出かける前に体の変調があったのは初めて…。大体は精神的にダウンしていることが多かったけど、今回みたいに腹痛に耳鳴り、前日には左半身のしびれまで現れ、大丈夫か今年の春お遍路、という感じ。

とりあえず早朝家を出て、どうにも上がらないモチベーションに困りながら新幹線で岡山、ここで乗り継ぎ瀬戸大橋渡って半年ぶりに四国入り。車内ではほとんど居眠りしてましたが、途中で見える瀬戸内の景色に、少しずつやる気が出てきます。

一旦松山迄乗り越して二駅バックした伊予和気のほとんど駅前に今回最初の札所53番がありました。76番とかと同じように、宅地の中のこじんまりとしたお寺で、門もコンパクトですが、中門がありました。鐘をつくこともできました。久々にローソクとお線香をお供えし、読経すると、俄然元気が出てきます。
納経所で伊予かんもらって少しのんびりしてから、いざ歩き開始!やはりこれこそ歩き遍路の醍醐味で、宅地が尽きると瀬戸の穏やかな海が広がります。厳しく怖かった土佐の海とはまるで違います。
途中こじんまりした大師堂で休んだりとのんびり11kmを無事歩き、泊まりは一人で寂しいけど豪華料理の宿が今夜の寝床です。



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今日のテーマはレリーフシュトラオス。レリーフは葉っぱという意見で、つまり葉っぱの花束を作る訳です。
材料は次の様に豊富です☆

赤ドラセナ 青ドラセナ 麩入りミスカンサス ヤナギバユーカリ2本 モンステラ2本 ヒペリカム2本 赤バラ3本 赤ダリア2本

先ずは葉っぱを静のものと動のものに分けます。モンスは動、ドラセナは静という具合。
ポイントは、オアシスを使わないゲシュテック、うーん、変な言い方ですがバインディングポイントから上が、まるでゲシュテックの様に、活け込んだ様に仕上げること。だから、段付けしたり、黄金分割はもちろん、花材の形態まで、ゲシュテックの時と同じように気をつけながら、足元はスパイラルに組ます。

後は2本、2枚のものはグルーピング、3本のものは不等辺三角形に、フィラー系は低く使うことなど習いました。



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3回目のレッスンに行ってきた!テーマはナチュアリッヒクラシッセフォルメン。自然でベーシックな形と訳そうか。なんせクラシックというのが従来のアメリカンデザインのアレンジを指すみたい。

使った花材
・ヤナギバユーカリ1本

・ゴッドセフィアナ2本→これはグリーンでも高貴な印象と捉えること

・白バラ3本

・チューリップ赤5本
赤はビビッドカラーで今日はバラの葉っぱが今ひとつなんでこっちを高貴な印象と捉える。

・ハイドランジャー紫とてもマニアックな色

・紫ヒアシンス3本
これはセロテープで葉っぱごと切りたいとこで巻きそこをテープの上から切る。最期にワイヤーを挿入してから挿す

後は左8高さ5右3の比率とか、段付け、ノイは新しいから交差で入れるとかスイートピーの黄色やオレンジは吸い上げだから茎の汁に気をつけろとか、リリオペにゴールドワイヤー巻きつけるとか、行くとなんか新しいことを仕入れられる。



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1日余った関西3DAY切符を使ってどこへ行こうかあれこれ迷うことしきり。一番行きたいのは槙尾山やけど、これは実家から車で行った方が断然近い。となると、電車を使って山寺の雰囲気となると、叡電しかない!しかも貴船は行ったことないし、ガイドを見ると貴船から鞍馬へ抜ける山道がある!遍路の予行にぴったり!
つうことで洛北目指してレッツゴー!で、普通の人なら先ず京阪ですんなり出町柳やろうけど、うちはそんなことはしない。一旦難波へ出て、なんと生駒を越えて西大寺へ。そっから北上、丹波橋で初めて京阪に乗り換えのコースを取りました。これやと3都の雰囲気たのしめるやろと。

さて、地下鉄で難波へ出てお弁当でも買って車内で、と思いきや、一向にLCカーが来ない。であきらめて生駒越えの絶景もほとんど見えぬまま西大寺へ。

ここでオッチャン達に囲まれふうふういって立ち食い。で、ホームに行くと、やったLC!けどよく見たら行き先難波になってて結局ふて寝しながら、小倉辺りできれいな景色見て丹波橋。伏見も一度はゆっくりしたいけど、今日はまたパスそのまま出町柳へ。

既にここで時間は2時。でも少し電車迄時間があるので下鴨神社にお参りを。てか意外と広い!次の電車にギリギリ間に合うかという位往復に時間がかかって。たださすがは京都。普段でも観光客多いこと。

叡電は学生以来20年ぶりで電車もすっかりきれいになってました。キララは残念ながら車庫でお休み。八瀬で別れてしばらく走ると次第に山の中。この辺同じ参拝電車の能勢電車そっくり。終点から一駅手前で降りて貴船神社へ向かいます。既に3時前でしたが、女性ばかり数人が歩いてます。女性ばかりというのがまた貴船らしい。でも一人もんはうちだけ~。

ずっと清流に沿って歩く歩く。流れの音とそよぐ風が心地よい。で15分ほど歩いて名物川床が見えてくると到着です。

さすがに由緒ある神社だけあって下鴨程広くはないけど立派な佇まいであります。しかも建物の木の匂いが素晴らしい。で、参拝して交通安全ステッカー買って、神社を降りて川を渡って鞍馬寺の登山口へ。といざ山へ入ろうとすると関所みたいのがあってここで入山料を500円取られる!ありえない、とブツブツ言いながら金剛杖のちょい短い杖を借りて登りにかかります。

これがまた遍路転がし並にキツイ!いやそれ以上かも。こりゃ杖ないと無理!おまけに牛若丸が天狗と跳び跳ねた木の根道に入るとこれが大変な悪路!途中2度ほどお堂で拝んで1時間。やっと鞍馬寺に着きました。

ここも大層でかい。20年前の記憶ではこんなでかい本堂は見てないので、どうやら当時は麓で帰ったのかも。

本堂からもまた山道が続き、並行してケーブルカーが走ってるくらいだから結構厳しい。着いた山門前は土産モノ屋がならんで結構いい雰囲気でした。

このまま出町柳経由の直接大阪でもよかったけど、せっかくのフリー切符。四条で降りて祇園を歩いて河原町から阪急で帰って参りました。

久々のジモティー巡礼、結構な半日でした。



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はじめに
 
 極めて個人的行為と思われる自殺を科学的にとらえたフランスの社会学者デュルケムは、自殺という現象を「個々の人間の心理から説明する」のではなく、「社会的な要因が人々を自殺に追い込む」という発想の元に、次のように自殺を類型化した。
①自己本位的自殺=社会や集団の統合が弱まり、個人が孤立した
時におきる自殺であり次のような特徴がある。
 ・配偶者を無くした人は未婚者より自殺率が高い。
 ・未婚者は既婚者より自殺率が高い。
 ・知識人・小説家は自殺率が高い。
  ・個人主義的傾向の強いプロテスタントの信者は、カトリック信者より自殺率が高い。
・農村より都市の方が自殺率が高い。
・戦争時より平和時の方が自殺率が高い。
 
    ②集団本位的自殺=社会統合が強すぎる状況で起きる自殺で、未
    開社会や軍人に見られる、宗教的な殉死。
 
  ③アノミー的自殺。アノミー(=欲望の無規制)という近代社会の特性(個人の欲求を規制する社会的規範が弛緩したことに起因)から生じる。
 
  ④宿命的自殺。欲望の規制が強すぎる為、著しい閉塞感に襲われておきる自殺。
 
 この分類を自殺のモデルとして僧の「入水」を当てはめてみると、それは、宿命的自殺と言えようか。このように、「入水」に対して新しい切り口から知見を得た上で、この説話を留意点に従い鑑賞してみたい。
 
 一.『宇治拾遺物語』について
 鑑賞に入る事前準備として、この説話が収められている『宇治拾遺物語』について、簡単に概観しておきたい。
     作者は未詳。今のところ、文筆に巧みな人間通である中世初頭の貴族知識人が想像されるところである。
     成立年代。建暦二年から承久二年頃の成立とするのが一般的とされるが、諸説ある。
     題名の由来。二説あり、一つは『宇治大納言物語』という先行の物語集に埋もれた話を拾い集めて、それ以後の話も書き足したとする説。もう一つは、『宇治大納言物語』の原本を伝えている宇治大納言の子孫が、「侍従俊貞」という人物で、「侍従」の唐名は「拾遺」というため、『宇治の捨遺(侍従)の物語』とする説[i]
     構成。十五巻、序文並びに百九十九の説話からなる。世俗説話である童話、笑い話、仏教説話である往生・転生譚、法験説話などが順不同に並べられていることから従来は「雑纂形態の説話集」とされてきたが、近年、これらの説話はばらばらではなく、『今昔物語』の様式とは異なるものの、ある種の関連性をもって繋がっているとする説が提唱されている。また、『今昔物語』や『古事段』と共通する話が多く、それらの説話集との関連が考えられている。
 
二.鑑賞
 この説話を一言で述べると、若い聖の入水往生をめぐる哀歓劇であろう。すなわち、何らかの事情で入水往生することになったものの、大勢の野次馬が見守る中で生への執着心が現れ、野次馬の一人に助けられるも、石を投げつけられる。これだけでも十分滑稽であるが、最後に後日談が付属してあるところにこの説話の喜劇ぶりが伺える。この面白みこそが説話文学のもつ妙味であるが、この説話を鑑賞するにあたって、その鑑賞上のポイントとなるのは、
①主人公が聖であること。
②背景にある無常の世界。
③随所に現れる仏教的トーン。
であると思われる。よって以下この三点に注視しながら、本文を追う形で鑑賞を進めてみたい。
 
「桂川で入水往生しようとした聖がいて、祗陀林寺で百日間の懺法(『法華経』を読誦して、罪障を懺悔する法の実践)を行ったので、人々がそこへ群がった。三十余の細身の聖で、瞑想的なさまをしつつ時々阿弥陀仏を唱えている。」
 
冒頭から早くも先述の三点が現れる。まず登場するのが聖である。聖とは本来、古代後期から南都北嶺の大寺院が権門化するのに抗い、大寺院(教団)から離脱して現世の苦悩、貧困、病苦などからの救済を、仏教上の思想から説く尊い存在である。本文においても人びとが、聖と縁を結ぼうとして、「その目に見合わせんと集ひたる者ども、こち押し、あち押し、ひしめき合ひたり」、という様子から窺うことができよう。このような聖という概念から得られる経験的指標が、現世を越えた非日常性であり、『宇治捨遺』には、世俗的な名聞利益や権力を拒絶した叡実など本来の聖の姿を追った説話がいくつもみられる。反面、そうした聖の説話とは裏腹に、非常に人間味を帯びた、名ばかり聖の話も収められている。『発心集』にも同じような往生譚である「蓮花城入水の事」において、入水の際に生への執着が生まれ、入水はしたものの往生できずにいる蓮花城という聖が登場するが、このような生への執着は極めて聖らしくない。
無常の世の中において、現世での絶望感から来世での期待感を抱いて自殺往生する人は多かった。これこそ冒頭で述べた宿命的自殺以外の何ものでもなかろう。とりわけ遁世者にとっての閉塞感のそれは、俗人に比して大きかったと思われる。このような閉塞感から救われる場が浄土であり、そこに極楽往生を深く尊ぶ往生の思想が感じられる。また平安中期以降、往生伝が各種存在することから、この説話を鑑賞するにあたって、この往生思想が流行した時代背景を看過してはなるまい。
 
「往生が予告された日の朝、聖は雑役車に乗って何やら行を営んでいるようだが、人に目を合わせることもなく時々大きな息をついている。行く道に立ち並んでいる見物の者たちが、うちまきの米を聖に向かって撒き散らすと、聖は、苦痛を訴え、「その米を紙袋に入れて私のもといた寺に送ってくれ。」と訴える。下賎の者は、手をすって拝むが、少し分別のあるものは、「これから入水往生しようとするものが、もといた寺へやれ、目鼻に入って痛いなどと言うのはおかしいことだ。」、と不信を抱く。」
 
このあたりから聖の様子がおかしくなり、出だしは尊い往生譚であった気配が希薄になり始める。そうしてこの状況は次で更に悪くなる。
 
「川原の石よりも多くの人が集まるなか、桂川のほとりに着いた聖は時刻を尋ね、申の刻であることを知ると、「往生の時刻にはまだ早い。もう少し暮れるまで待て。」、という。待ちかねて、遠くからきた人の中には帰る人も現れ、川原は人少なげになったが、熱心な者は未だ残り、「往生には時刻を定めるであろうか、おかしなことだ。」、と言う僧もいる。」
 
 ここにきていよいよ聖の生への執着が完全に露呈する。この部分はそれを不審に思うある僧とのコントラストが妙味である。
 
「まもなく聖は裸体になり西方に向かって入水しようとするが、船ばたの網に足がひっかかってしまう。弟子が外してやると身体はさかさまに沈んでいく。動転して水中でもがく聖を野次馬の一人が助けてやると、聖は「このご恩は極楽でお返し申し上げましょう。」と礼を言って入水を放棄し、陸の方へ走り上がって逃げ始める。これを見て残っていた者達が、撒きかけるように聖めがけて川原の石を投げつけたため、聖は頭を打ち割られてしまった。」
 
 ここでは一連の入水騒動の顛末が書かれているが、注目すべき点が二つある。まずは仏教的トーンが最高に感じられる、「西にむかいて」という一文と、「このご恩は極楽にて申し候はん」という一文である。この二つの文から多くの読み手の脳裏に浮かぶのは、間違いなく西方の極楽浄土であろう。往生思想が広く流布していた時代背景が浮かぶと同時に、本説話が仏教説話であることをひしひしと感じる部分である。
 今一つは、「川原の石を取りて、まきかくるように打つ」とう一文である。この「まきかくるように打つ」とあるのを見て、前半のうちまきの部分が想起されるのは容易なことである。聖がものを撒き散らされる点で前半と同じ状況ではあるが、方や入水する行為を尊敬して撒き散らされる米、方や入水を放棄して人びとの敬意を失ったために撒き散らされる川原の石。前半と後半で人びとの聖への異なる行為の対比が面白い。
 聖が生に対する執着心を覚え、円滑な入水が出来なかった点では、先述した蓮花城の場合に似るが、蓮花城の場合は、極楽往生できず、その無念さを知人に冥土から伝えるという顛末に至るのに対し、こちらの聖は石を投げつけられるも一命は取り留めている。同じ往生譚でも、『発心集』では、暗い感じを覚えるのに対し、『宇治拾遺』では、滑稽な感じを覚える。特に、聖が野次馬に対して手をすり合わせて礼を言うところや、陸に走り上がる場面などは、非常に生に執着する人間臭さが表現されており、これが滑稽さを増長させる。いずれにせよ『発心集』、『宇治拾遺』それぞれの作品の特徴がはっきりとわかる両説話ではある。
 
さて先述したがこの説話はここでは終わらず、「この法師にやありけん~」と、後日譚が控えているのがこの作品の更にユーモラスなところである。特に命からがら逃げ出した聖が、入水の失敗をわるびれもせず、むしろしたたかに自分のことを、「先の入水の上人」と称しているところが白眉である。上人とは、もっぱら天台宗とそこから分派した浄土宗、時宗、日蓮宗などで使われる僧侶の敬称である。法然上人などはその代表格であるが、そのような名だたる僧侶を差し置いて、この聖が入水に失敗した自分を同じように上人と自称しているところに、この説話の滑稽さのエッセンスが現れているように思われる。
 
まとめ
先述したとおり、当時は往生極楽思想が深く尊ばれており、現世をはかなく思い、来世への期待感から断食・入水・焼身・縊死などによる様々な自殺往生が行われた。つまりそのような社会的要因が、人びとを自殺往生に導いたのである。こうした時代背景をもちつつしたためられたこの説話は、ある聖の滑稽な入水往生顛末記の形をとりつつも、当時の世相への辛辣な風刺を投げかけているような気がしないでもない。


[i]小林保治訳、「現代語訳学燈文庫 今昔物語集・宇治拾遺物語」、学燈社
 
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プロフィール
HN:
まお(真央)
性別:
非公開
職業:
フラワーデザイナー
趣味:
フラワーデザイン
自己紹介:
ここでは、おへんろ道に咲く1輪のお花になりたいまおが、おへんろとお花のことを想い、綴ります。
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