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へんろ道に咲く花1輪・・・そんな花になりたい・・・
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  はじめに
 江戸時代における仏教は、完全に徳川幕府の支配下に置かれた。幕府は寺院法度を制定して、仏教を自らの統制下に置いたのである。こうした限られた幕藩体制の中ではあったが、仏教は各宗で戒律復古の動きが活発になった。また幕府による統制は、仏教が庶民に一層浸透する結果をもたらし、例えばそれまではプロの修行者の行為であった四国遍路や、巡礼などが庶民によって盛んに行われることとなった。
このように一方では幕府による厳しい統制がなされ、また一方では庶民により一層仏教が浸透する状況下において真言僧達はどのような活躍をしていたのか。本レポートでは設題に従い、江戸時代の中期に密教研究の向上と宣教に努め、慈雲尊者と尊称される飲光(以下慈雲)を取り上げ、その姿を考察してみたい。
 
 一.室町時代末期から江戸時代の仏教
本論に入る以前に、もう少し詳しく慈雲活躍までの時代背景を考察しておきたい。その時代背景こそ慈雲という高僧誕生の引き金となるからである。
室町時代も末期になると室町幕府の力が弱まり戦国の世となった。その戦国時代において本願寺教団に代表される一部の仏教教団は、武力的に勢力を増大させ、一政治権力集団にまで成長した。こうした武力を持つ仏教集団は守護大名にとっては脅威であり、その統制は、本願寺と争った織田信長以降、豊臣秀吉を経て徳川家康へと引き継がれる重要政策課題であった。例えば高野山の場合、戦国の世に備えるため僧兵化した行人集団と信長が対立し、高野山は武装解除を求めた信長の要求に応じなかったため、信長軍の攻撃を受けた。また秀吉は根来寺を攻略後、同じように高野山に迫った。この際は木食応其の活躍によりかろうじて危機から救われ、更に秀吉から復興のための資金援助を受けて金堂などの再建が行われた。
 戦国時代が終わり、江戸幕府が成立すると幕府は寺院法度を各宗派ごとに定めて仏教をその統制下においた。これにより各宗派の本山からその末寺にいたるまですべての寺院や僧侶が定められた法度の統制下におかれた。これも高野山の場合は既に開幕以前の慶長六年(一六〇一)、「高野山寺中法度」が制定され[i]、学侶と行人の対立などもこの統制によって終息の方向にむかい、それと共に高野山の勢力も低下した。真言宗全体をみても、東寺、醍醐寺、長谷寺など六度に渡って法度が発されて[ii]、平安時代以来の荘園を奪われ経済的にも統制を受けた。
 ただこの統制は仏教を保護する役目をも併せ持っていた。すなわち幕府は、民衆を特定の寺院に所属させる檀家制度を確立させ、民衆の葬祭儀礼を仏教に管轄させた。そして寺領を保護し免税措置なども施した。また幕府は教学研究を奨励したため、各宗派は僧侶の教育機関を設立した。ここでは幕府によって自由な活動が制限されていたため、自ずと経典や、先人達の著作、解釈書などの研究考察が行われた。そしてこうした動きは各宗派に戒律復興を促した。
 このように仏教は完全に江戸幕府の宗教政策に組み込まれながらも新たな動きを見せていた。こうした時代背景のもと戒律復興運動を起こしつつ、独自の研究を行ったのが慈雲であった。事項ではその戒律運動の理解に不可欠な真言律宗に関して簡単に俯瞰してみたい。
 
二.真言律宗とは
 真言律宗とは、古くは嘉禎二年(一二三六)、鎌倉時代に社会救済運動に取り組んだ叡尊が、西大寺を復興して真言律宗の本山としたことに始まる[iii]。叡尊は鑑真の伝えた南山律宗の再興と共に、社会救済事業を進めて戒律の民衆化をはかった。これが真言律宗の淵源である。この真言律宗を基盤に慶長七年(一六〇二)、律道の振興をはかった明忍が京都高山寺で自誓受戒して真言律を復興し槙尾山に僧坊を開いた。明忍が若くして病没後はここが戒律運動の拠点となり、真言宗のみならず、天台宗や、日蓮宗などを巻き込んで宗派を超えた戒律復興の動きへと導いた。こうした江戸期における真言律宗の展開は、明忍から慈雲が活躍した十七世紀から十八世紀にかけてであり、その中心にいた人物が慈雲であった。事項では、この慈雲の経歴と業績を追ってみたい。
 
 三.慈雲の経歴と業績
 慈雲の業績は大きく二つに分けることができよう。一つは密教研究の向上であり、もう一つは教化の普及である[iv]。本項ではシラバスに挙げていただいた参考文献等に依拠しながら、慈雲の生涯を追う形でその業績を考察してみたい。
 慈雲は享保三年(一七一八)七月に、大阪中之島の高松藩蔵屋敷に生まれた。慈雲の父母ともに信仰心が篤かったとされる[v]。こうした父母を持つ慈雲は十二歳の享保十五年(一七三〇)十一月、父が深く信仰していた河内法楽寺の忍綱貞紀について出家し、十五歳で四度加行を修した[vi]。更に十九歳で槙尾山、大鳥山と並んで律の三僧坊と称される河内の野中寺に入って本格的な戒律と密教の修行生活を始め、ここで沙弥戒並びに具足戒を受けた。慈雲が学んだのは密教だけに止まらない。一六歳の時に京都へ遊学、三年近く儒者伊藤東涯のもとで儒学や詩・文学を学んだ。また二四歳の時には信州まで出向いて禅の手ほどきを受けている[vii]。こうした修行時代を経た慈雲は二七歳の時に、師の命によって河内長栄寺の住職となり、ここで正法律をおこすことになる。これは前項で述べた仏陀在世当時への戒律復古運動の一つである。
 ここで定められたのが正法律の根本方針を記した「根本僧制」五条である。これは仏陀の教えを忠実に守るように規定がなされ、仏陀在世当時の仏教復古への宣言でもあった。
 その後慈雲の著した書物の一つが「方服図儀」二巻である。慈雲は、宗旨によって袈裟や衣体が異なることを批判し、袈裟の裁断法を改め、正しい法衣の普及に努めた[viii]
 慈雲の密教研究はその後宝暦八年(一七五八)、四一歳で生駒山の麓に庵を築いた頃から始まるサンスクリット語研究で更に拍車がかかる。ここでは先ず、唐時代の僧義浄の著である「南海寄帰伝」の注釈書を書いている。この事実はとりもなおさず、慈雲が仏陀在世当時の仏教を重んじ、その発祥の地であるインドの律を研究しようとした表れである。こうした慈雲の志向は、独力でサンスクリット語を勉強し、その最も主要な著書である「梵学津梁」一千巻の著述を成し遂げるに至る。この「梵学津梁」はサンスクリット語に関わる可能な限りの文献、資料などを集め慈雲の編集によるサンスクリット語の辞典まで含まれた大著述であり、サンスクリット語研究の先駆けともなった。ちなみに西欧におけるサンスクリット語研究の開始はそれから半世紀も後のことである[ix]。これらは慈雲の業績の内、密教研究の向上にあたるところである。
 慈雲は明和八年(一七七一)に、信者達の要望もあって京都の阿弥陀寺に入った。ここから慈雲の一般大衆に対する教化活動が始まる。その教化活動のシンボル的存在とも言えるのが、「十善法語」の執筆であろう。ここでは不殺生、不偸盗、不邪淫、不妄語、不綺語、不悪口、不両舌、不貪欲、不瞋恚、不邪見、といった十の善業について平易なかな文字で記され、密教の思想と一般大衆の日常生活における倫理感との融合がはかられている。すなわち密教という世俗から離れた宗教に、広く一般大衆にも通じる普遍性を持たせたのである。この書物は更に儒学の研究成果や、雲伝神道とも呼ばれる慈雲独自の神道説も取り入れられて、のちに神・仏・儒の三教が融合した「人となる道」の執筆へと続く。
 こうして慈雲は密教教団内における密教の再評価、発展に努めただけではなく密教を、世俗倫理を説く宗教として広く民衆に門戸を広げたのである。これらは慈雲の二つ目の業績である。
 戒律復興の旗印のもと、密教教団内においては、密教の研究深化に努め、他方世俗に対しては、広く密教思想の社会化を推し進めた慈雲は、最後までその二つの道の深化に弛むことなく、文化八年(一八〇四)、八七歳で遷化した。
 このように江戸時代において慈雲が残した業績は数々あるが、とりわけ庶民への教化普及の業績は大きい。その代表的なものが、冒頭でも述べた西国三十三ヶ所巡りや、四国遍路への庶民の参加である。こうした巡礼活動は、かつては限られたプロの修行者による厳しい行の一つであった。これが庶民に身近なものとなって、いわば庶民の参詣旅行の形をとるようになってそれは現在までも続いている。無論このすべてが慈雲の手によるものではないが、それまでは僧が主役であった密教の舞台に、広く一般大衆も参加できる基盤を作り上げた功績は非常に大きい。
 
 まとめ(現代日本の社会と慈雲の思想)
 科学技術の飛躍的な進化によって現代日本の社会は、慈雲が生きた江戸時代に比べてはるかに物質的に豊かな時代になった。江戸時代には頻繁に起こった飢饉なども起こらない。一方で江戸時代には倫理観や規範というものが存在し、人はそれに従って生活していたが、戦後急速に個を強調する思想が広まり、それらは衰退してしまった。その結果極めて自己本位的な生き方が支配する世の中となり、尊属殺人や通り魔事件などが頻発する異常な社会の到来を招いてしまった。この狂った社会を今後どうすればよいのであろうか。
 残念ながら科学技術に社会の建て直しを行うだけの技量はない。そうなると古来から人間では解決できない問題への解答を導き出す存在として人間と共に歴史を歩んできた宗教に託すより他に方法はあり得ない。ことに慈雲が常に心に抱いていた原典復古の精神と、「十善法語」に書かれた精神は、疲弊した現代社会の建て直しに一縷の望みを投げかけるのではないだろうか。とりあえず今回慈雲の業績に触れた者として、少しでもこの十善戒を守るよう努力し、また周囲の人間に呼びかけていく、この必要性を痛感する。


[i] 立川武蔵、頼富本宏編、「シリーズ密教三 中国密教」、春秋社、一九九九年、六七頁
[ii] 松長有慶著、「サーラ叢書十九 密教の歴史」、平楽寺書店、一九六九年、二五九頁
[iii]  松長長慶編、「宗派別 日本の仏教・人と教え二 真言宗」、小学館、一九八五年、二五一頁
[iv] 立川武蔵、頼富本宏編、前掲著、六九頁
[v] 松長長慶編、前掲著、二六〇頁
[vi] 立川武蔵、頼富本宏編、前掲著、六九頁
[vii] 松長有慶著、前掲著、二七一頁
[viii] 松長有慶著、前掲著、二七二頁
[ix] 松長有慶著、前掲著、二七二頁
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 はじめに
 どのような学問においても、その方法論が大切である。研究対象に対する方法論は、その学問に独自性を与える点では、ある意味研究対象よりも重要かもしれない。そこで、例えばある研究対象に社会学的アプローチをかけようとした場合、依拠する先行研究も自ずと社会学的アプローチが行われたものを俯瞰することになる。ところでこの密教史概説という科目は、シラバスに従えば、密教の大きな流れを掴みとるところに目的がある。そこでこれにアプローチするに当たっては、まず密教学が候補として挙がる一方で、歴史を紐解くため、歴史学的方法もあり得る。更にこの歴史に登場する高僧たちが独自の思想を展開しているため、思想史的なアプローチも可能である。そのためご教示いただいた教科書や、参考文献にも様々なアプローチが見られる。この設題三に挑むに当たっては、このように様々なアプローチが考えられ、対象を明確にせずに任意にその方法論を選択しようとすると、各方法論は好きにせよ、と言ってそっぽをむいてしまう。そこで、留意点に従って制約を次々にかけていき、最終的に鎌倉・室町期における高野山の歴史を、歴史学的な方法で考察することにした。
 
一.鎌倉・室町期以前の高野山の推移と動向
 当然のことながらその時代の歴史は、前時代の影響をもろに受けて成立していく。従ってその時代だけを輪切りにして捉えることはできない。歴史学では、古代(前期と中期)・中世(鎌倉・室町)・近世・近代と歴史を区分しているが、そこで中世の歴史を紐解く前には古代、とりわけその後期の歴史を俯瞰する必要がある。そこで本項では、興味を抱いた高野山の歴史の、特に弘法大師ご入定後の高野山の歴史を紐解いてみたい。
 高野山の歴史は弘仁七年(八一六)に弘法大師空海が、現在の壇上伽藍の地に金剛峯寺を建立したときに始まる[i]。その弘法大師空海は承和二年(八三五)三月二一日にご入定され、その後十大弟子と呼ばれる人々によって一時は繁栄した高野山ではあるが、カリスマ的な統率者がいないため山の発展は頓挫する[ii]。また、遣唐使の廃止によって、大陸文化との交流が途切れたこともその一因となった[iii]。また天台宗のその道場が比叡山延暦寺一寺であったのに対して、真言宗には、京に高雄山神護寺と東寺、そして紀州の山中に高野山と三つの道場が分散して存在したことも、山の衰退に拍車をかけた。現に十世紀に入ると、京都在住の東寺一長者により、金剛峰寺の座主式を兼任されて、東寺の末寺的存在とならざるを得なかった[iv]。更には落雷を受けて伽藍内の大半の建物を失う、という悲劇も重なった。こうした諸要因があって、高野山は十世紀初頭には無住の山と化した[v]
しかしながら十一世紀に入ると、祈親上人らによる復興活動が起こり、またその活動の最中、観賢の入山に端を発する入定信仰の流布もあって、藤原道長が高野山に参詣した。この参詣が以後院政期に至るまで次々と時の権力者達が参詣する契機となるとともに、高野山にとっては、①諸堂などの施設、及び人的組織の形成・維持、②寺領荘園の寄進、が権力者達によって行われ、大きな恩恵を受け続けることになるのである。
このように、時の権力者の相次ぐ参詣は高野山復興の大きな鍵となった。中でも、白河・鳥羽両院の参詣は、高野山における人的組織の形成という大きな特徴を持っていた。これは聖人を組織化することにより、建立事業が容易になるのはもとより、教団の規模が拡大し、中世以降の高野山の自立へとつながっていく契機となるのである。
さて、この入定信仰に基づく権力者たちの参詣とともに、触れておかなければならないのが、日本の仏教に影響を与えた浄土信仰である。
摂関家の相次ぐ高野山参詣が行われている頃、仏滅後二〇〇〇年を経た後、釈迦の教えは残るが、修行も悟りも消滅してしまうという末法の時代に入ったとされ、仏教信者には不安が広がった。仏教のみならず、その頃は摂関政治に衰えの兆しが見え、武士の台頭が始まり、社会不安も増大していた。このような時期に台頭してきたのが浄土信仰であった。
これは念仏を唱えて死後阿弥陀如来に救われ極楽浄土の往生できるという念仏の信仰である。この比叡山に端を発する浄土信仰は、末法の時代という時代背景によって、空也や源信といった僧によって朝野とわず広まり、真言密教の世界にすら浸透した。
これら前述した入定信仰と浄土信仰がもたらしたのが高野聖の誕生、そしてその勢力拡大であろう。平安末期に仏教を民間に浸透させるうえで大きな役割を担ったのが聖であった。彼らは特に寺院に定住することなく、正統な仏教の教学研鑚を行うこともなく諸国を遊行し、主に説話で民間に対して布教活動を行う僧達である。この聖のうち、特に浄土信仰を広めた聖が阿弥陀聖であり、これに対して浄土信仰と入定信仰を基礎とした高野山浄土信仰の教宣役となったのが高野聖であった。今もなお各地に宗派を超えて存在するお大師様信仰は、まさにこの高野聖たちの活躍の賜物である。この時代における高野聖の誕生、発展は、日本各地に高野山の名前を広めるとともに、次代鎌倉時代における、学侶・行人・聖の高野三派による高野山運営機構の整備・拡充へともつながっていく。そして念仏を積極的に取り入れた覚鑁による真言密教の刷新が行われたのも、平安時代末期の高野山の歴史を語る上で欠かせない出来事であろう。
 
二.鎌倉期における高野山の推移と動向
前述のように平安時代の末期における仏教において盛んに信仰されていたの浄土信仰であったが、鎌倉期にはこれが母体となって鎌倉新仏教とよばれる数々の新しい仏教が誕生した。浄土宗、浄土真宗、日蓮宗、臨済宗、曹洞宗、時宗などがそれにあたる。これら新仏教は、いずれも密教のような厳しい修行や、難解な教学研鑚を避け、念仏、禅、題目などの実践だけで救われる、と説く。このように新仏教が攻勢を強める中で真言宗は、既に平安末期において真言念仏を確立していたのとともに、権力者達の参詣は平安期に比して減少するものの、聖たちの活躍によって高野詣は絶えることがなかった。また念仏だけではなく、栄西の後継者である行勇は、入山して密教を修め、山内に密教と禅を修める道場を建立した。
さて鎌倉時代における高野山の重要な史実の一つとして挙げられるのが金剛峯寺の「自立」政策がなされたことである。これは前項でも軽く触れたが、具体的には高野三派による金剛峯寺山上組織の形成とその充実である。すなわち鎌倉中期には、密教哲学の研鑚、実務を行う学侶と、諸堂の管理や供花・点灯などの雑用をこなす行人、そして勧進・納骨を行う聖の三集団が形成され、身分的には明確な区分がなされつつも、これら三派が一つの僧集団を形成していた[vi]。またこれとは別に、権力問題の存在から、権力的には、金剛峰寺方、大伝法院方、金剛三昧院方の三つに分かれていた。このうち金剛峰寺方の金剛峰寺座主職は、十世紀以来東寺一長者の兼任であり、山上の組織の最高位たる検校職に関しても東寺一長者の掌握するところであった[vii]。そこで金剛峰寺の衆徒達は惣寺と呼ばれる自治的組織を形成し、自立の為に様々な運動を展開する。すなわち、内部には、大伝法院方と対立・抗争を繰り広げつつ、東寺一長者の存在や権限を否定・制約する運動を、外部には、高野山麓荘園群に対して強い支配体制を築く運動を展開した[viii]。特に荘園に対する支配体制の強化は、次の南北朝時代や戦国時代の全国的な動乱を乗り切り、また大伝法院との対立・抗争に打ち勝ち、且つ高野山全体の自立を強める大きな要因となった。
 
 三.室町期における高野山の動向と推移
 二度にわたる元寇などによって衰退した鎌倉幕府から建武の新政によって後醍醐天皇が朝廷に政権を取り返し、その政権を足利氏が奪って世の中が乱れた南北朝時代を経て、室町幕府が政治的安定した室町時代前半には、鎌倉時代のような新しい仏教運動は起こらなかった。逆に荘園制度の衰退により、荘園に経済的基盤を持つ伝統的な大寺院はその力を弱めていった。このような中、勢力を拡大したのが臨済宗であり、南禅寺に代表される五山によって、新しい文化が花開いた。
 室町時代も末期になると下克上の世の中となり、再び世の中は戦乱にまみれた。この時代に勢力を拡大したのは浄土真宗で、これには、農民や町民が自衛のために形成した共同体が大きな役割を果たした。このような室町期、高野山はどのような歴史を歩んでいたのであろうか。
 南北朝時代において高野山は、両朝双方の勢力が味方につけようと、高野山の勧誘にさかんであったが、その誘いに応じることなく中立を保っていた[ix]。そのような状況下の元弘三年(一三三三)十月、後醍醐天皇は「元弘の勅裁」とい呼ばれる裁定を金剛峯寺宛てに下し、金剛峯寺は、弘法大師空海が朝廷より賜ったとする土地の全域に対する一円支配権の承認を得る。すなわち高野山麓の諸荘園の支配を強めるその一方で、遠隔地の荘園の支配を断念することとなった。南北両朝に対する政治的中立の立場はこのような事情から現れてきている[x]
 こうして高野山は以後紀伊国北東部の荘園領主としての地位を保ちつつ、鎌倉時代以来の東寺との軋轢からも脱出し、その自立性を強めていくことになった。ただ、内部的には学侶と行人の間に軋轢が生じたことなどによって山内で何度か合戦がおこり、その都度多くの子院や、坊舎、堂塔などが失われた。こうした行人の台頭はその後も継続していくこになる[xi]
 
 まとめ
 以上、設題に対して、高野山の歴史を歴史学的視点で概観してみた。冒頭でも述べた通り方法論が異なれば、全く異なった論じ方になったかもしれない。


[i] 山陰加春夫編著、「高野山大学選書 第一巻 高野山と密教文化」、小学館スクエア、二〇〇六年、二六頁
[ii] 松永有慶、高木訷元、和多秀乘、田村隆照著、「高野山 その歴史と文化」、法蔵館、一九八四年、一六七頁
[iii] 池口恵観監修、「真言宗」、世界文化社、一九九三年、五八頁
[iv] 藤本清二郎、山陰加春夫編著、「街道の日本史35 和歌山・高野山と紀ノ川」、吉川弘文館、二〇〇三年、四二、四四頁
[v] 池口恵観監修、前掲著、六〇頁
[vi] 山陰加春夫編著、前掲著、三二頁
[vii] 山陰加春夫編著、前掲著、三二,三三頁
[viii] 山陰加春夫編著、前掲著、三二,三三頁
[ix]  山陰加春夫編著、前掲著、八三頁
[x] 山陰加春夫編著、前掲著、四〇頁
[xi] 山陰加春夫編著、前掲著、四〇頁、八四頁
 
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  はじめに
 インド密教史を考察する上で重要なのは、その歴史的な展開にしたがって三区分された、時代区分を押さえること[i]であったが、このこのことは中国密教史の考察においても当てはまる。またその時代区分となる根拠も同様で、インドでは『大日経』並びに『金剛頂経』の成立で区分されていたが、中国ではこれらの経典がもたらされて、中国において最も密教が盛んに活動していた時期を中期とし、それ以前を前期、それ以降を後期とされた[ii]
 本レポートではこの中期中国密教の時代において活躍した善無畏、金剛智、一行、不空、恵果といった高僧の中から、入唐した弘法大師空海に密教を面授し、中国のみならず日本の密教にも大きな影響を与えた恵果和尚について考察することで設問に答えたい。
 
一.恵果以前の中期中国密教の推移と動向
 先述したように、『大日経』並びに『金剛頂教』といういわゆる両部の大経がインドから中国にもたらされ、以後唐が衰えるまで盛んに活動していた時代の密教を中期中国密教と呼ぶが、この中期中国密教の時代も、更に三つに分けてアプローチすることが出来る。すなわち、善無畏と金剛智によってその両部の大経がもたらされた時代、次いで彼らの弟子である、不空、一行によって幅広く中国社会に密教が浸透した時代、そうして恵果によって両部の大経が一つのセットとして捉えられ、弘法大師空海に続く独自の思想が展開された時代である[iii]。そこで本項では本論に入る為の知見整理として、恵果以前の中期中国密教の推移と動向を見てみたい。
中期中国密教の歴史が開始されるのは、八世紀前半である。なおそれ以前の中国にもインド同様、呪術的・儀礼的なものは存在しており、唐の成立までに文化交流によってインドからの様々な密教的素養が中国へ移入されていた。こうした初期密教の素地は中期中国密教盛況に向けてのアプローチとなった。ただ、漢代以降の歴史書が儒教を旨とした上層階級を中心に書かれたため、こうした呪術的な信仰については不詳な点が多い[iv]
 さて六一八年、隋に代わって中国を統一した唐は文化交流に力を注ぎ、隋の末以来途絶えていたインド・ペルシャ等差西域との交易が再開された結果、西方の文化が唐へ、特に都である長安へと流入してきた[v]
 このような状況下、二人のインド僧が相次いで来唐した。一人はシルクロード経由で来唐して、胎蔵曼荼羅という物質原理を説く『大日経』を伝えた善無畏であり、もう一人は南海経由で来唐して、精神原理の金剛界曼荼羅を表す『金剛頂経』を伝えた金剛智であった。
 善無畏が長安に到着したのは開元四(七一六)年のことであった。長安入りした善無畏は、西明寺菩提院において携えたサンスクリット原典の翻訳を開始し、弟子の一行による協力のもと『大日経』七巻の漢訳を行った。また一行は、善無畏より『大日経』の講義を受け、後に『大日経疏』二十巻を編集している[vi]
 一方の金剛智であるが、善無畏に遅れること四年、開元八(七二〇)年に洛陽に入り、それから二十年程の間に『金剛頂経』系統の経典を翻訳した[vii]
 この二人によって行われた両部の大経の翻訳は、その後中期中国密教発展の端緒となったが、この中期中国密教を唐の社会に定着させたのは、それぞれの弟子である一行と不空である。彼らが幸運だったのは、それぞれの師がいずれもインド中期密教を修法し、灌頂の儀式や曼荼羅を描く方法など密教の修法を心得ており、このような師から直接生のインド中期密教を相承できたことである。弘法大師空海が言われる通り、密教は定められた修行を行い、師から弟子への面受によってしか修得できないのである。
さて、一行と不空の活躍によってインド中期密教は、中期中国密教として唐の社会に定着することとなった。本レポートで取り上げたい恵果は、その不空の直接の弟子にあたる。以下、主にシラバスで武内先生にご教示いただいたテキストや主要参考文献をてほどきに恵果の人物像やその業績等を考察していきたい。
 
二.恵果の経歴と業績
 本項では恵果の経歴を追いながら、同時にその業績を俯瞰してみたい。
恵果(七四六-八〇五)は長安城の東南に隣接した昭応の地に生まれ[viii]、九歳の時に不空の弟子の一人であった曇貞について出家、その後不空に弟子入りした。不空への弟子入りの後、師から詳しく密教の教えを受けながら、二十二才の時に師より『金剛頂系』の密教を授けられた。同時に恵果は善無畏の弟子玄超より『大日系』の密教も授けられた。このことは、恵果にとって、弘法大師空海以前の僧としては唯一両部の教えを相承するとともに、後に空海に至る独自の思想を形成する素地となる。
 また十五歳の時に初めて霊験を現した恵果は、二十五歳の時、代宗皇帝に迎えられて長生殿で霊験を現し、その後帝の病気平癒を祈願したり、雨乞いの修法を再三にわたって行うなどして、朝野双方から受け入れられ、こうした名声は唐内のみならず、東アジアの各地から恵果の元へ留学する者が相次ぐ現象を招いた。さてこのように恵果の密教が順調に推移するなか、大暦九年(七七四)、師である不空の病が重くなり、不空は六人の弟子に密教の法灯を護持していく遺言を与えたが、もちろんこの六人の中に恵果もおり、時に二十九歳の時であった。
 この頃から恵果は青龍寺に住んでいた。この青龍寺は隋時代の皇帝文帝が遷都する際に、城中の墳墓を掘り、それを郊外に移してそこに創建した「霊感寺」が前身である。この寺がその後の各皇帝による廃寺や再興を繰り返し、その都度寺の名前も代わるなど変遷を経た結果、景雲二年(七一一)から青龍寺と呼ばれるようになった。伝統的に高僧の住む寺ではあったが、密教の道場となったのは、恵果の居住がきっかけである[ix]。青龍寺はその後、弘法大師空海も恵果を頼って来訪、ここで密教を恵果から面受されており、日本密教史上でも重要な寺である。
恵果は大暦十一年(七七六)、この青龍寺に代宗から東塔院を賜り、密教の灌頂道場を置いた頃から、以後徳宗、順宗と続く唐の歴代の皇帝から厚い信任を受けるようになり、また執務の面でも要職を歴任するなど、社会的信用と弟子からの信頼を強めていった。続いて大暦十三年(七七八)、勅命で師位を授けられ、健中元年(七八〇)、伝法阿闍梨となって、いよいよ密教を授け始めた。また授法のみならず、国家安寧を祈って再三雨乞いなど密教の修法を行った。
永貞元年五月(八〇五)、日本から弘法大師空海が密教の授法を求めて青龍寺の恵果の元にやってきた。当時病が進行していた恵果であったが、弘法大師空海の姿を一目見るなり、「われ先に汝が来ることを知りて相い待つこと久し。今日相い見えること太だよし、太だよし」と慶んだという。更に、弘法大師空海といくつか言葉を交わした恵果は、弘法大師空海の才能を確信して、「報命つきなんと欲すれども、不法に人なし。必ずすべからく速やかに香花を弁じて灌頂壇に入るべし」(以上出典『請来目録』)と告げ、六月に『大日経』に基づく胎蔵界灌頂を、引き続き七月には『金剛頂経』による金剛界灌頂を行って、弘法大師空海に両部の法を授けた。そして八月上旬、密教最高の儀式である伝法灌頂を執り行って密教代八祖、阿闍梨空海を誕生させた恵果は、弘法大師空海の手で日本へ持ち帰らせるための多数の曼荼羅や、仏画、法具、など密教に欠かすことのできない品々を準備した。そして十二月になると、弘法大師空海を枕元に呼んで「もはや心残りはない。汝はすぐに故国に帰り、この密教を天下に広めよ」と命じた。弘法大師空海が、留学期間を大幅に早めてわずか二年で帰国したのは、師であるこの恵果の最後の言葉によるところが最も大きいであろう。こうしてすべてを終えた恵果は、その住まいである青龍寺において六十年の生涯を終えた。
 
 三.恵果の業績の中国密教史上における意義と位置付け
前項では主に主要参考文献に依拠しつつ、恵果の一生を追いながらその中で主な業績を俯瞰してみた。前述したように数々の業績を持つ恵果であるが、整理すると二つの大きな業績に目がいく。
一つ目はなんといっても両部の大経を相承したうえに、この両部を同等とみなして一元的に捉えた思想の確立であろう[x]。特に密教発祥の地であるインドですら出現しなかったこの思想は、中国密教のみならず密教全体の発展につながったのではなかろうか。また、テーゼ対アンチテーゼの構図からからジンテーゼを生み出すという、西洋では一〇〇〇年以上も後に誕生するヘーゲル弁証法的考え方を、恵果が既に持っていたという点は密教という枠を越えて特筆されるべきではなかろうか。
二つ目は、弘法大師空海の才能を直ちに見出し、その密教のすべての伝授したことである。このことは、中国では恵果の入寂後、道教の勢力拡大によって急速に密教が衰退したにもかかわらず、日本では一〇〇〇年以上を経て、尚、当時の密教が継承され盛んに活動している歴史を振り返ると、これも密教史全体に対して大きな業績といえるであろう。
 
まとめ
 恵果を取り上げたことによって、恵果に関する各先行研究を俯瞰したが、その方法論の制約を受けるためか、中期中国密教のという枠組みの中でのみその人物像が論じられ、また思想的意義が解説される。また恵果による金胎不二の思想の確立は、長い密教史上でも一大エポックであるにもかかわらず、恵果直接の著作が皆無[xi]とはいえ、その学究上の取り扱いが地味すぎる。特に日本密教史を語る上では欠くことはできず、ことに現代のような所有欲にあふれ殺伐とした時代においては、恵果の、その物欲がなく、温和な人物像ともどももっと高い評価がなされるべきではかかろうか。


[i] 武内孝善、奥山直司、佐藤永伸著、「密教史概説の手引き」、高野山大学通信教育室、二〇〇四年、八頁
[ii] 武内孝善、奥山直司、佐藤永伸著、前掲著、三一頁
[iii] 立川武蔵、頼富本宏編、『シリーズ密教三 中国密教』、春秋社、一九九九年、二五~三三頁
[iv] 松長有慶著、『サーラ叢書十九 密教の歴史』、平楽寺書店、一九六九年、一三二頁
[v] 松長有慶著、前掲著、一三六頁
[vi] 松長有慶著、前掲著、一三七、一三八頁
[vii] 松長有慶著、前掲著、一三八頁
[viii] 立川武蔵、頼富本宏編、前掲著、五六頁
[ix] 立川武蔵、頼富本宏編、前掲著、七〇頁
[x] 例えば、松長有慶著、前掲著、一四七頁や、立川武蔵、頼富本宏編、前掲著、五七頁など、テキスト、主要参考文献にはいずれもこの業績を称える著述が見られる。
[xi] 松長有慶著、前掲著、一四六頁
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 はじめに
 チベット密教史を考察する上で欠かすことができないのが、その流れの源流に位置するインド密教である。また中国を通じて伝わったわが国の密教も、別の流れでありながら遡っていくと同様のところへアクセスする。これは密教がインドで誕生、発展し、それから中国、日本へと伝わり、また他方チベットへ伝わりそれぞれ独特の展開がなされたことを暗示している。すなわち現存するチベット・日本、いずれの密教史を考察する上でも、インド密教史の理解が不可欠である。よって本レポートでは、このインド密教史を俯瞰することから設題に答える作業を始めたい。
 
一.インド密教史
インド密教史を考察する上で先ず踏まえなければならないのは、その歴史的な展開にしたがって区分けされた、初・中・後の三期に分けられた時代区分と、インド・チベット仏教における密教経典の分類法である[i]。先ず時代区分であるが、『大日経』と『金剛頂経』の成立した七世紀を基点として、この時期を中期、六世紀以前を初期、八世紀以降を後期と三区分するのが一般的である[ii]
次いで分類法であるが、日本密教では、弘法大師空海のもたらした『大日経』と『金剛頂経』を主体とする密教を純密、それ以前の密教を雑密と区分するように、インドにおいてもその性格によりいくつかの分類法がある。多くの研究者の間で流布しているのは、チベット仏教の学僧プトゥンがチベット大蔵経の編纂に際して用いた、所作・行・瑜伽・無上瑜伽、の四種の分類法である。これを先ほどの三つの時代区分に当てはめると、所作は初期に、行と瑜伽は中期に、そして無上瑜伽は後期に該当する[iii]
それはさておき、密教は仏教の、それも大乗仏教の一つの形態であり[iv]、修行者が救済される過程、すなわち部派仏教から、広く衆生を救済する過程、すなわち大乗仏教を経た後、宇宙的真理を内包するところまで発展した、いわば仏教の最終形態である。今回考察すべきチベット密教は、そのさらに最終の形態であり、インド後期密教を忠実に受け継ぐ。ところが逆に、その密教の起源をどこに求めるか、という命題を与えられた場合、それはいまだに決着していない[v]。とはいえ密教の考え方自体は、それが内包される仏教の発祥よりも古く、紀元前十二世紀から十三世紀にまでさかのぼり、バラモン教と切り放すことの出来ないインド神話中にその萌芽を読み取ることができる、と言ってもそれは過言ではあるまい。というのもこの「インド神話前期」ともいうべきこのバラモン教の隆盛期に誕生したのが、密教の根元たる概念であろうところの梵我一如思想であったからである。
この梵(ブラフマン)とは大宇宙を支配する原理のことで、一方の我(アートマン)とは個体を支配する原理をさす。よって梵我一如とは、「梵、すなわち宇宙と、我、すなわち人間は一つの如し」という意味である。つまり梵我一如思想とは、簡単に言うと、「宇宙と人間の本質は一つである」という考え方なのである。
この思想の根本理念をまとめると次のようになる。
「たった一つの真理があり、それ以外のこの世で見る諸々の現象はマーヤ―(幻影、幻覚)である、とするものである。人が真実の己れを悟れないのは無知であり、真の英知を有していないからである。離れて見える自己と絶対者ではあるが、両者の間に何らの区別はなく、両者は実は一体なのである。ただ無知によって両者は二元的に離れたように見える。」[vi]
 一方弘法大師空海は「弁顕密二教論」で次のごとく言われた。これを読み解いてみても、釈尊による仏教成立以前に密教の源流があることを悟り、また先述した梵我一如思想の根本理念とすこぶる近いことを述べられている様に思えるのも論者だけではあるまい。
「いわゆる秘密に
しばらく二義あり
一には衆生秘密
二には如来秘密なり
衆生は無妙妄想をもって
本性の真覚を覆蔵するが
ゆえに衆生の自秘という
応化の説法は機にかなって
薬をほどこす
言はむなしからざるがゆえに
ゆえに他受容身は内証を秘して
その境を説きたまわず
すなわち等覚も希夷し
十地も絶離せり
これを如来秘密と名づく」
 
さてそのバラモン教も、一旦衰退の時期を迎えることになる。それは仏陀の登場による原始仏教の興隆である。しかしながらバラモン教は、土着化することによってヴェーダにはない神々まで崇めるヒンドゥー教に姿を変え、やがてそれは民衆的な宗教となって、逆に後の大乗仏教にまで影響を与えるほどにまで成長した。その成長に大きく貢献したのが、後の密教にも大きな影響を与えるタントリズムである。それを証拠に、チベット密教がその系譜を引き継いだインド後期密教が、一般に仏教のタントリズムとか、タントラ仏教と呼ばれている[vii]
タントリズムとは、古代インド人の間で古くから持ちつづけられた民間信仰、星占、巫術、祭式、儀礼をはじめ、医学、薬学、天文学、錬金術などの科学、あるいは法律などの日常生活の規範をも包括した民衆の文化を総括した名称である[viii]。この民衆的且つ神秘的なタントリズムの思想の発展は、後述するインド中期密教と融合してチベット密教に引き継がれるインド後期密教の誕生を誘うことになる。
さて、タントリズムの最盛期は西暦五〇〇年頃であるが、それからしばらくして、中期密教が生まれてくる。それは、従来雑密であった初期密教が、大きな二つの流れによって新たな密教の成立に至ったこと、すなわち「大日経」系統と「金剛頂経」系統の流れの確立に他ならない。大日如来を本尊とする考え方など、今の日本にも残るこの中期密教の完成は、密教史中でも重要であろう。特に、「大日経」、「金剛頂経」といった正統な経典が整ったことは、従来雑密であった密教を、純密という仏教の中の完成された大きな形態へと導いた。時にそれは七~八世紀のことである。この中期密教が中国を経て、弘法大師空海によって日本にもたらされる。
この中期密教のうち、特に「金剛頂経」系統の流れとタントリズムが結びつき、インド後期密教へと受け継がれていく。このインド後期密教を受け入れたのが、事項で述べるチベットである。ただこの後期密教は、その発祥の地インドでは、ヒンズー教の更なる普及、またイスラム勢力の侵入等により、姿を消してしまった。
 
二.チベット密教
前項で述べたように発祥の地で姿を消したインド密教は、その最終形態である後期密教がチベットへと伝えられ、これが現在も受け継がれている。すなわちインド密教の最終形態が現在のチベットで展開されている訳である。それでは何故、本家インドで途絶えた密教がチベットで受容され、且つ現在まで展開されてきたのであろうか。
チベットにおける仏教は、同じ大乗仏教(もちろん細かくみれば、チベットは後の段階の大乗仏教であるが)である点で、日本の仏教と共通点が多いが、その受容の状況も、日本におけるそれと似た状況であった。
日本の場合、伝来した仏教は国家の守護と結びつけられて発展していくが、チベットにおいてもそれは同様であった。すなわち初めてチベット全土を統一し、チベットに初めて仏教を導入されたとされるソンツェンガムポ王は、インドやネパールから僧侶を招聘し、更に中国とネパールから王妃を娶り、ラサに二寺を建立したのを皮切りに各地に寺を建立した。当時チベットには魔物がいるとされ、これらの寺は魔物の上に建立されこの魔物を鎮圧した、という話があるが、この寺院による魔物鎮圧とは、仏教導入による国家統一にほかなるまい[ix]。また、日本に伝来した仏教は古来からの神道と結びついたが、チベットにおいても、伝来当初は抗争があったものの、最終的には土着のボン教と習合している。また仏教が国教化し、更にチベット密教が確立したのは八世紀のティソン・デツェン王の時代であるが、ティソン王は熱心な仏教徒であり、インド中期密教に詳しいインド僧、シャーンタラクシタを招聘した。こうして密教化がほぼ完了した仏教がインドから直接チベットに伝わったのである。このソンツェンガムポ王らによって導入された仏教を、チベット仏教史では前伝仏教と呼ぶが、その特徴は古密教と呼ばれる密教にあり、現在に伝わる密教とは異なり、インド初期から中期の密教の影響を強く受けている。すなわちここにはタントリズムとの融合の影響はほとんど見られない。ただソンツェンガムポ王によって開始された王朝は一旦九世紀に終わりを迎え、ランダルマの破仏と呼ばれるランダルマ王の弾圧によって仏教も一旦チベットの表舞台から姿を消す。
現在まで続くチベット密教の形が現れるのは十世紀に入ってからである。それはランダルマ王の息子から数えて四代目の王であるイェシェーウーが仏教界再興のために、インドからヴィクラマシーラ大学の学長アティーシャを招聘したことがきっかけであった。ここに復興した仏教を後伝仏教と呼び、これがインドから直接師を招いたことにより、当時インドにおいて展開していたインド後期密教の様相を強く持った密教を内包する。ただ後伝仏教は、前伝仏教が隆盛した時代とは異なり、チベット全土を支配する王室が存在しなかったため、四つの教団が分裂して存在することになった[x]
 
まとめ
 
 本レポートで与えられた命題は、チベット人によるインド密教の受容について論ぜよ、ということであった。またインド密教の展開、インド・チベットの密教の経典分類法等も留意せよ、ということであった。従ってまず、インド密教の時代区分、経典分類を先行研究に従い行ったが、本レポートでの独自色を出すべく、敢えて密教の起源がどこかということに挑戦し、インド神話の時代である、と仮定した。梵我一如思想があまりにも現在の密教の根底にある思想と酷似しているからである。それ以外の考察はほぼ、先行研究に従った。


[i] 武内孝善、奥山直司、佐藤永伸著、「密教史概説の手引き」、高野山大学通信教育室、二〇〇四年、八頁
[ii] 松長有慶編著、『インド後期密教〔上〕方便・父タントラの密教』、春秋社、二〇〇五年、三頁
[iii] 松長有慶編著、前掲著、四頁
[iv] 武内孝善、奥山直司、佐藤永伸著、前掲著、十五頁
[v]武内孝善、奥山直司、佐藤永伸著、前掲書、九頁
[vi] K・C・チャクラヴァルティ著、橋本芳契・橋本契訳、『古代インドの文化と文明』、東方出版、一九八二年、二五一、二五二頁。
[vii] 松長有慶編著、前掲著、五頁
[viii] 松長有慶編著、前掲著、六頁
[ix] 立川武蔵、頼富本宏編、『シリーズ密二 チベット密教』、春秋社、一九九九年、三十頁
[x]立川武蔵、頼富本宏編、前掲著、三一頁
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遂にやってきました、研究発表会。一応の体裁は整えた資料は準備し、先生からも、このままいけ、と指導は受けてるものの、これほど緊張した日も初めて…。おまけに発表の順番はラスト。なんで最初なんだ、と事務に聞いたら、遠距離の人から順番にしたと。なるほどトップは北海道の人らしい。

おまけに質疑応答も含めて一人当たり30分の発表時間は最初から延長となり、3番手が30分も発表したこともあって、順番が来たときは既に1時間も遅れが。

で、回復運転。20分の発表時間を14分(後で先生に言われた)でやっつけ、というか緊張感絶頂で相当早口で発表したらしい。

他の発表者のレベルが低かったおかげで、ていうか研究対象とかテーマとか方法論まで指導受けるとかありえへんし、先生曰く致命的なミスはなかったが、いつもは単なる教師と思ってる大学の先生、さすがは専門家であって想像もつかないような突っ込みを数点ほど受けました。その場はへいへい、と言って切り抜けたものの、なんで突っ込まれたかわからず、後で先生から指導を受けて無事に終了!

外へ出ると高野山は既に春の陽気でした。
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ここでは、おへんろ道に咲く1輪のお花になりたいまおが、おへんろとお花のことを想い、綴ります。
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