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へんろ道に咲く花1輪・・・そんな花になりたい・・・
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  はじめに
 江戸時代における仏教は、完全に徳川幕府の支配下に置かれた。幕府は寺院法度を制定して、仏教を自らの統制下に置いたのである。こうした限られた幕藩体制の中ではあったが、仏教は各宗で戒律復古の動きが活発になった。また幕府による統制は、仏教が庶民に一層浸透する結果をもたらし、例えばそれまではプロの修行者の行為であった四国遍路や、巡礼などが庶民によって盛んに行われることとなった。
このように一方では幕府による厳しい統制がなされ、また一方では庶民により一層仏教が浸透する状況下において真言僧達はどのような活躍をしていたのか。本レポートでは設題に従い、江戸時代の中期に密教研究の向上と宣教に努め、慈雲尊者と尊称される飲光(以下慈雲)を取り上げ、その姿を考察してみたい。
 
 一.室町時代末期から江戸時代の仏教
本論に入る以前に、もう少し詳しく慈雲活躍までの時代背景を考察しておきたい。その時代背景こそ慈雲という高僧誕生の引き金となるからである。
室町時代も末期になると室町幕府の力が弱まり戦国の世となった。その戦国時代において本願寺教団に代表される一部の仏教教団は、武力的に勢力を増大させ、一政治権力集団にまで成長した。こうした武力を持つ仏教集団は守護大名にとっては脅威であり、その統制は、本願寺と争った織田信長以降、豊臣秀吉を経て徳川家康へと引き継がれる重要政策課題であった。例えば高野山の場合、戦国の世に備えるため僧兵化した行人集団と信長が対立し、高野山は武装解除を求めた信長の要求に応じなかったため、信長軍の攻撃を受けた。また秀吉は根来寺を攻略後、同じように高野山に迫った。この際は木食応其の活躍によりかろうじて危機から救われ、更に秀吉から復興のための資金援助を受けて金堂などの再建が行われた。
 戦国時代が終わり、江戸幕府が成立すると幕府は寺院法度を各宗派ごとに定めて仏教をその統制下においた。これにより各宗派の本山からその末寺にいたるまですべての寺院や僧侶が定められた法度の統制下におかれた。これも高野山の場合は既に開幕以前の慶長六年(一六〇一)、「高野山寺中法度」が制定され[i]、学侶と行人の対立などもこの統制によって終息の方向にむかい、それと共に高野山の勢力も低下した。真言宗全体をみても、東寺、醍醐寺、長谷寺など六度に渡って法度が発されて[ii]、平安時代以来の荘園を奪われ経済的にも統制を受けた。
 ただこの統制は仏教を保護する役目をも併せ持っていた。すなわち幕府は、民衆を特定の寺院に所属させる檀家制度を確立させ、民衆の葬祭儀礼を仏教に管轄させた。そして寺領を保護し免税措置なども施した。また幕府は教学研究を奨励したため、各宗派は僧侶の教育機関を設立した。ここでは幕府によって自由な活動が制限されていたため、自ずと経典や、先人達の著作、解釈書などの研究考察が行われた。そしてこうした動きは各宗派に戒律復興を促した。
 このように仏教は完全に江戸幕府の宗教政策に組み込まれながらも新たな動きを見せていた。こうした時代背景のもと戒律復興運動を起こしつつ、独自の研究を行ったのが慈雲であった。事項ではその戒律運動の理解に不可欠な真言律宗に関して簡単に俯瞰してみたい。
 
二.真言律宗とは
 真言律宗とは、古くは嘉禎二年(一二三六)、鎌倉時代に社会救済運動に取り組んだ叡尊が、西大寺を復興して真言律宗の本山としたことに始まる[iii]。叡尊は鑑真の伝えた南山律宗の再興と共に、社会救済事業を進めて戒律の民衆化をはかった。これが真言律宗の淵源である。この真言律宗を基盤に慶長七年(一六〇二)、律道の振興をはかった明忍が京都高山寺で自誓受戒して真言律を復興し槙尾山に僧坊を開いた。明忍が若くして病没後はここが戒律運動の拠点となり、真言宗のみならず、天台宗や、日蓮宗などを巻き込んで宗派を超えた戒律復興の動きへと導いた。こうした江戸期における真言律宗の展開は、明忍から慈雲が活躍した十七世紀から十八世紀にかけてであり、その中心にいた人物が慈雲であった。事項では、この慈雲の経歴と業績を追ってみたい。
 
 三.慈雲の経歴と業績
 慈雲の業績は大きく二つに分けることができよう。一つは密教研究の向上であり、もう一つは教化の普及である[iv]。本項ではシラバスに挙げていただいた参考文献等に依拠しながら、慈雲の生涯を追う形でその業績を考察してみたい。
 慈雲は享保三年(一七一八)七月に、大阪中之島の高松藩蔵屋敷に生まれた。慈雲の父母ともに信仰心が篤かったとされる[v]。こうした父母を持つ慈雲は十二歳の享保十五年(一七三〇)十一月、父が深く信仰していた河内法楽寺の忍綱貞紀について出家し、十五歳で四度加行を修した[vi]。更に十九歳で槙尾山、大鳥山と並んで律の三僧坊と称される河内の野中寺に入って本格的な戒律と密教の修行生活を始め、ここで沙弥戒並びに具足戒を受けた。慈雲が学んだのは密教だけに止まらない。一六歳の時に京都へ遊学、三年近く儒者伊藤東涯のもとで儒学や詩・文学を学んだ。また二四歳の時には信州まで出向いて禅の手ほどきを受けている[vii]。こうした修行時代を経た慈雲は二七歳の時に、師の命によって河内長栄寺の住職となり、ここで正法律をおこすことになる。これは前項で述べた仏陀在世当時への戒律復古運動の一つである。
 ここで定められたのが正法律の根本方針を記した「根本僧制」五条である。これは仏陀の教えを忠実に守るように規定がなされ、仏陀在世当時の仏教復古への宣言でもあった。
 その後慈雲の著した書物の一つが「方服図儀」二巻である。慈雲は、宗旨によって袈裟や衣体が異なることを批判し、袈裟の裁断法を改め、正しい法衣の普及に努めた[viii]
 慈雲の密教研究はその後宝暦八年(一七五八)、四一歳で生駒山の麓に庵を築いた頃から始まるサンスクリット語研究で更に拍車がかかる。ここでは先ず、唐時代の僧義浄の著である「南海寄帰伝」の注釈書を書いている。この事実はとりもなおさず、慈雲が仏陀在世当時の仏教を重んじ、その発祥の地であるインドの律を研究しようとした表れである。こうした慈雲の志向は、独力でサンスクリット語を勉強し、その最も主要な著書である「梵学津梁」一千巻の著述を成し遂げるに至る。この「梵学津梁」はサンスクリット語に関わる可能な限りの文献、資料などを集め慈雲の編集によるサンスクリット語の辞典まで含まれた大著述であり、サンスクリット語研究の先駆けともなった。ちなみに西欧におけるサンスクリット語研究の開始はそれから半世紀も後のことである[ix]。これらは慈雲の業績の内、密教研究の向上にあたるところである。
 慈雲は明和八年(一七七一)に、信者達の要望もあって京都の阿弥陀寺に入った。ここから慈雲の一般大衆に対する教化活動が始まる。その教化活動のシンボル的存在とも言えるのが、「十善法語」の執筆であろう。ここでは不殺生、不偸盗、不邪淫、不妄語、不綺語、不悪口、不両舌、不貪欲、不瞋恚、不邪見、といった十の善業について平易なかな文字で記され、密教の思想と一般大衆の日常生活における倫理感との融合がはかられている。すなわち密教という世俗から離れた宗教に、広く一般大衆にも通じる普遍性を持たせたのである。この書物は更に儒学の研究成果や、雲伝神道とも呼ばれる慈雲独自の神道説も取り入れられて、のちに神・仏・儒の三教が融合した「人となる道」の執筆へと続く。
 こうして慈雲は密教教団内における密教の再評価、発展に努めただけではなく密教を、世俗倫理を説く宗教として広く民衆に門戸を広げたのである。これらは慈雲の二つ目の業績である。
 戒律復興の旗印のもと、密教教団内においては、密教の研究深化に努め、他方世俗に対しては、広く密教思想の社会化を推し進めた慈雲は、最後までその二つの道の深化に弛むことなく、文化八年(一八〇四)、八七歳で遷化した。
 このように江戸時代において慈雲が残した業績は数々あるが、とりわけ庶民への教化普及の業績は大きい。その代表的なものが、冒頭でも述べた西国三十三ヶ所巡りや、四国遍路への庶民の参加である。こうした巡礼活動は、かつては限られたプロの修行者による厳しい行の一つであった。これが庶民に身近なものとなって、いわば庶民の参詣旅行の形をとるようになってそれは現在までも続いている。無論このすべてが慈雲の手によるものではないが、それまでは僧が主役であった密教の舞台に、広く一般大衆も参加できる基盤を作り上げた功績は非常に大きい。
 
 まとめ(現代日本の社会と慈雲の思想)
 科学技術の飛躍的な進化によって現代日本の社会は、慈雲が生きた江戸時代に比べてはるかに物質的に豊かな時代になった。江戸時代には頻繁に起こった飢饉なども起こらない。一方で江戸時代には倫理観や規範というものが存在し、人はそれに従って生活していたが、戦後急速に個を強調する思想が広まり、それらは衰退してしまった。その結果極めて自己本位的な生き方が支配する世の中となり、尊属殺人や通り魔事件などが頻発する異常な社会の到来を招いてしまった。この狂った社会を今後どうすればよいのであろうか。
 残念ながら科学技術に社会の建て直しを行うだけの技量はない。そうなると古来から人間では解決できない問題への解答を導き出す存在として人間と共に歴史を歩んできた宗教に託すより他に方法はあり得ない。ことに慈雲が常に心に抱いていた原典復古の精神と、「十善法語」に書かれた精神は、疲弊した現代社会の建て直しに一縷の望みを投げかけるのではないだろうか。とりあえず今回慈雲の業績に触れた者として、少しでもこの十善戒を守るよう努力し、また周囲の人間に呼びかけていく、この必要性を痛感する。


[i] 立川武蔵、頼富本宏編、「シリーズ密教三 中国密教」、春秋社、一九九九年、六七頁
[ii] 松長有慶著、「サーラ叢書十九 密教の歴史」、平楽寺書店、一九六九年、二五九頁
[iii]  松長長慶編、「宗派別 日本の仏教・人と教え二 真言宗」、小学館、一九八五年、二五一頁
[iv] 立川武蔵、頼富本宏編、前掲著、六九頁
[v] 松長長慶編、前掲著、二六〇頁
[vi] 立川武蔵、頼富本宏編、前掲著、六九頁
[vii] 松長有慶著、前掲著、二七一頁
[viii] 松長有慶著、前掲著、二七二頁
[ix] 松長有慶著、前掲著、二七二頁
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