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へんろ道に咲く花1輪・・・そんな花になりたい・・・
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 はじめに
 どのような学問においても、その方法論が大切である。研究対象に対する方法論は、その学問に独自性を与える点では、ある意味研究対象よりも重要かもしれない。そこで、例えばある研究対象に社会学的アプローチをかけようとした場合、依拠する先行研究も自ずと社会学的アプローチが行われたものを俯瞰することになる。ところでこの密教史概説という科目は、シラバスに従えば、密教の大きな流れを掴みとるところに目的がある。そこでこれにアプローチするに当たっては、まず密教学が候補として挙がる一方で、歴史を紐解くため、歴史学的方法もあり得る。更にこの歴史に登場する高僧たちが独自の思想を展開しているため、思想史的なアプローチも可能である。そのためご教示いただいた教科書や、参考文献にも様々なアプローチが見られる。この設題三に挑むに当たっては、このように様々なアプローチが考えられ、対象を明確にせずに任意にその方法論を選択しようとすると、各方法論は好きにせよ、と言ってそっぽをむいてしまう。そこで、留意点に従って制約を次々にかけていき、最終的に鎌倉・室町期における高野山の歴史を、歴史学的な方法で考察することにした。
 
一.鎌倉・室町期以前の高野山の推移と動向
 当然のことながらその時代の歴史は、前時代の影響をもろに受けて成立していく。従ってその時代だけを輪切りにして捉えることはできない。歴史学では、古代(前期と中期)・中世(鎌倉・室町)・近世・近代と歴史を区分しているが、そこで中世の歴史を紐解く前には古代、とりわけその後期の歴史を俯瞰する必要がある。そこで本項では、興味を抱いた高野山の歴史の、特に弘法大師ご入定後の高野山の歴史を紐解いてみたい。
 高野山の歴史は弘仁七年(八一六)に弘法大師空海が、現在の壇上伽藍の地に金剛峯寺を建立したときに始まる[i]。その弘法大師空海は承和二年(八三五)三月二一日にご入定され、その後十大弟子と呼ばれる人々によって一時は繁栄した高野山ではあるが、カリスマ的な統率者がいないため山の発展は頓挫する[ii]。また、遣唐使の廃止によって、大陸文化との交流が途切れたこともその一因となった[iii]。また天台宗のその道場が比叡山延暦寺一寺であったのに対して、真言宗には、京に高雄山神護寺と東寺、そして紀州の山中に高野山と三つの道場が分散して存在したことも、山の衰退に拍車をかけた。現に十世紀に入ると、京都在住の東寺一長者により、金剛峰寺の座主式を兼任されて、東寺の末寺的存在とならざるを得なかった[iv]。更には落雷を受けて伽藍内の大半の建物を失う、という悲劇も重なった。こうした諸要因があって、高野山は十世紀初頭には無住の山と化した[v]
しかしながら十一世紀に入ると、祈親上人らによる復興活動が起こり、またその活動の最中、観賢の入山に端を発する入定信仰の流布もあって、藤原道長が高野山に参詣した。この参詣が以後院政期に至るまで次々と時の権力者達が参詣する契機となるとともに、高野山にとっては、①諸堂などの施設、及び人的組織の形成・維持、②寺領荘園の寄進、が権力者達によって行われ、大きな恩恵を受け続けることになるのである。
このように、時の権力者の相次ぐ参詣は高野山復興の大きな鍵となった。中でも、白河・鳥羽両院の参詣は、高野山における人的組織の形成という大きな特徴を持っていた。これは聖人を組織化することにより、建立事業が容易になるのはもとより、教団の規模が拡大し、中世以降の高野山の自立へとつながっていく契機となるのである。
さて、この入定信仰に基づく権力者たちの参詣とともに、触れておかなければならないのが、日本の仏教に影響を与えた浄土信仰である。
摂関家の相次ぐ高野山参詣が行われている頃、仏滅後二〇〇〇年を経た後、釈迦の教えは残るが、修行も悟りも消滅してしまうという末法の時代に入ったとされ、仏教信者には不安が広がった。仏教のみならず、その頃は摂関政治に衰えの兆しが見え、武士の台頭が始まり、社会不安も増大していた。このような時期に台頭してきたのが浄土信仰であった。
これは念仏を唱えて死後阿弥陀如来に救われ極楽浄土の往生できるという念仏の信仰である。この比叡山に端を発する浄土信仰は、末法の時代という時代背景によって、空也や源信といった僧によって朝野とわず広まり、真言密教の世界にすら浸透した。
これら前述した入定信仰と浄土信仰がもたらしたのが高野聖の誕生、そしてその勢力拡大であろう。平安末期に仏教を民間に浸透させるうえで大きな役割を担ったのが聖であった。彼らは特に寺院に定住することなく、正統な仏教の教学研鑚を行うこともなく諸国を遊行し、主に説話で民間に対して布教活動を行う僧達である。この聖のうち、特に浄土信仰を広めた聖が阿弥陀聖であり、これに対して浄土信仰と入定信仰を基礎とした高野山浄土信仰の教宣役となったのが高野聖であった。今もなお各地に宗派を超えて存在するお大師様信仰は、まさにこの高野聖たちの活躍の賜物である。この時代における高野聖の誕生、発展は、日本各地に高野山の名前を広めるとともに、次代鎌倉時代における、学侶・行人・聖の高野三派による高野山運営機構の整備・拡充へともつながっていく。そして念仏を積極的に取り入れた覚鑁による真言密教の刷新が行われたのも、平安時代末期の高野山の歴史を語る上で欠かせない出来事であろう。
 
二.鎌倉期における高野山の推移と動向
前述のように平安時代の末期における仏教において盛んに信仰されていたの浄土信仰であったが、鎌倉期にはこれが母体となって鎌倉新仏教とよばれる数々の新しい仏教が誕生した。浄土宗、浄土真宗、日蓮宗、臨済宗、曹洞宗、時宗などがそれにあたる。これら新仏教は、いずれも密教のような厳しい修行や、難解な教学研鑚を避け、念仏、禅、題目などの実践だけで救われる、と説く。このように新仏教が攻勢を強める中で真言宗は、既に平安末期において真言念仏を確立していたのとともに、権力者達の参詣は平安期に比して減少するものの、聖たちの活躍によって高野詣は絶えることがなかった。また念仏だけではなく、栄西の後継者である行勇は、入山して密教を修め、山内に密教と禅を修める道場を建立した。
さて鎌倉時代における高野山の重要な史実の一つとして挙げられるのが金剛峯寺の「自立」政策がなされたことである。これは前項でも軽く触れたが、具体的には高野三派による金剛峯寺山上組織の形成とその充実である。すなわち鎌倉中期には、密教哲学の研鑚、実務を行う学侶と、諸堂の管理や供花・点灯などの雑用をこなす行人、そして勧進・納骨を行う聖の三集団が形成され、身分的には明確な区分がなされつつも、これら三派が一つの僧集団を形成していた[vi]。またこれとは別に、権力問題の存在から、権力的には、金剛峰寺方、大伝法院方、金剛三昧院方の三つに分かれていた。このうち金剛峰寺方の金剛峰寺座主職は、十世紀以来東寺一長者の兼任であり、山上の組織の最高位たる検校職に関しても東寺一長者の掌握するところであった[vii]。そこで金剛峰寺の衆徒達は惣寺と呼ばれる自治的組織を形成し、自立の為に様々な運動を展開する。すなわち、内部には、大伝法院方と対立・抗争を繰り広げつつ、東寺一長者の存在や権限を否定・制約する運動を、外部には、高野山麓荘園群に対して強い支配体制を築く運動を展開した[viii]。特に荘園に対する支配体制の強化は、次の南北朝時代や戦国時代の全国的な動乱を乗り切り、また大伝法院との対立・抗争に打ち勝ち、且つ高野山全体の自立を強める大きな要因となった。
 
 三.室町期における高野山の動向と推移
 二度にわたる元寇などによって衰退した鎌倉幕府から建武の新政によって後醍醐天皇が朝廷に政権を取り返し、その政権を足利氏が奪って世の中が乱れた南北朝時代を経て、室町幕府が政治的安定した室町時代前半には、鎌倉時代のような新しい仏教運動は起こらなかった。逆に荘園制度の衰退により、荘園に経済的基盤を持つ伝統的な大寺院はその力を弱めていった。このような中、勢力を拡大したのが臨済宗であり、南禅寺に代表される五山によって、新しい文化が花開いた。
 室町時代も末期になると下克上の世の中となり、再び世の中は戦乱にまみれた。この時代に勢力を拡大したのは浄土真宗で、これには、農民や町民が自衛のために形成した共同体が大きな役割を果たした。このような室町期、高野山はどのような歴史を歩んでいたのであろうか。
 南北朝時代において高野山は、両朝双方の勢力が味方につけようと、高野山の勧誘にさかんであったが、その誘いに応じることなく中立を保っていた[ix]。そのような状況下の元弘三年(一三三三)十月、後醍醐天皇は「元弘の勅裁」とい呼ばれる裁定を金剛峯寺宛てに下し、金剛峯寺は、弘法大師空海が朝廷より賜ったとする土地の全域に対する一円支配権の承認を得る。すなわち高野山麓の諸荘園の支配を強めるその一方で、遠隔地の荘園の支配を断念することとなった。南北両朝に対する政治的中立の立場はこのような事情から現れてきている[x]
 こうして高野山は以後紀伊国北東部の荘園領主としての地位を保ちつつ、鎌倉時代以来の東寺との軋轢からも脱出し、その自立性を強めていくことになった。ただ、内部的には学侶と行人の間に軋轢が生じたことなどによって山内で何度か合戦がおこり、その都度多くの子院や、坊舎、堂塔などが失われた。こうした行人の台頭はその後も継続していくこになる[xi]
 
 まとめ
 以上、設題に対して、高野山の歴史を歴史学的視点で概観してみた。冒頭でも述べた通り方法論が異なれば、全く異なった論じ方になったかもしれない。


[i] 山陰加春夫編著、「高野山大学選書 第一巻 高野山と密教文化」、小学館スクエア、二〇〇六年、二六頁
[ii] 松永有慶、高木訷元、和多秀乘、田村隆照著、「高野山 その歴史と文化」、法蔵館、一九八四年、一六七頁
[iii] 池口恵観監修、「真言宗」、世界文化社、一九九三年、五八頁
[iv] 藤本清二郎、山陰加春夫編著、「街道の日本史35 和歌山・高野山と紀ノ川」、吉川弘文館、二〇〇三年、四二、四四頁
[v] 池口恵観監修、前掲著、六〇頁
[vi] 山陰加春夫編著、前掲著、三二頁
[vii] 山陰加春夫編著、前掲著、三二,三三頁
[viii] 山陰加春夫編著、前掲著、三二,三三頁
[ix]  山陰加春夫編著、前掲著、八三頁
[x] 山陰加春夫編著、前掲著、四〇頁
[xi] 山陰加春夫編著、前掲著、四〇頁、八四頁
 
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