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へんろ道に咲く花1輪・・・そんな花になりたい・・・
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  はじめに
 インド密教史を考察する上で重要なのは、その歴史的な展開にしたがって三区分された、時代区分を押さえること[i]であったが、このこのことは中国密教史の考察においても当てはまる。またその時代区分となる根拠も同様で、インドでは『大日経』並びに『金剛頂経』の成立で区分されていたが、中国ではこれらの経典がもたらされて、中国において最も密教が盛んに活動していた時期を中期とし、それ以前を前期、それ以降を後期とされた[ii]
 本レポートではこの中期中国密教の時代において活躍した善無畏、金剛智、一行、不空、恵果といった高僧の中から、入唐した弘法大師空海に密教を面授し、中国のみならず日本の密教にも大きな影響を与えた恵果和尚について考察することで設問に答えたい。
 
一.恵果以前の中期中国密教の推移と動向
 先述したように、『大日経』並びに『金剛頂教』といういわゆる両部の大経がインドから中国にもたらされ、以後唐が衰えるまで盛んに活動していた時代の密教を中期中国密教と呼ぶが、この中期中国密教の時代も、更に三つに分けてアプローチすることが出来る。すなわち、善無畏と金剛智によってその両部の大経がもたらされた時代、次いで彼らの弟子である、不空、一行によって幅広く中国社会に密教が浸透した時代、そうして恵果によって両部の大経が一つのセットとして捉えられ、弘法大師空海に続く独自の思想が展開された時代である[iii]。そこで本項では本論に入る為の知見整理として、恵果以前の中期中国密教の推移と動向を見てみたい。
中期中国密教の歴史が開始されるのは、八世紀前半である。なおそれ以前の中国にもインド同様、呪術的・儀礼的なものは存在しており、唐の成立までに文化交流によってインドからの様々な密教的素養が中国へ移入されていた。こうした初期密教の素地は中期中国密教盛況に向けてのアプローチとなった。ただ、漢代以降の歴史書が儒教を旨とした上層階級を中心に書かれたため、こうした呪術的な信仰については不詳な点が多い[iv]
 さて六一八年、隋に代わって中国を統一した唐は文化交流に力を注ぎ、隋の末以来途絶えていたインド・ペルシャ等差西域との交易が再開された結果、西方の文化が唐へ、特に都である長安へと流入してきた[v]
 このような状況下、二人のインド僧が相次いで来唐した。一人はシルクロード経由で来唐して、胎蔵曼荼羅という物質原理を説く『大日経』を伝えた善無畏であり、もう一人は南海経由で来唐して、精神原理の金剛界曼荼羅を表す『金剛頂経』を伝えた金剛智であった。
 善無畏が長安に到着したのは開元四(七一六)年のことであった。長安入りした善無畏は、西明寺菩提院において携えたサンスクリット原典の翻訳を開始し、弟子の一行による協力のもと『大日経』七巻の漢訳を行った。また一行は、善無畏より『大日経』の講義を受け、後に『大日経疏』二十巻を編集している[vi]
 一方の金剛智であるが、善無畏に遅れること四年、開元八(七二〇)年に洛陽に入り、それから二十年程の間に『金剛頂経』系統の経典を翻訳した[vii]
 この二人によって行われた両部の大経の翻訳は、その後中期中国密教発展の端緒となったが、この中期中国密教を唐の社会に定着させたのは、それぞれの弟子である一行と不空である。彼らが幸運だったのは、それぞれの師がいずれもインド中期密教を修法し、灌頂の儀式や曼荼羅を描く方法など密教の修法を心得ており、このような師から直接生のインド中期密教を相承できたことである。弘法大師空海が言われる通り、密教は定められた修行を行い、師から弟子への面受によってしか修得できないのである。
さて、一行と不空の活躍によってインド中期密教は、中期中国密教として唐の社会に定着することとなった。本レポートで取り上げたい恵果は、その不空の直接の弟子にあたる。以下、主にシラバスで武内先生にご教示いただいたテキストや主要参考文献をてほどきに恵果の人物像やその業績等を考察していきたい。
 
二.恵果の経歴と業績
 本項では恵果の経歴を追いながら、同時にその業績を俯瞰してみたい。
恵果(七四六-八〇五)は長安城の東南に隣接した昭応の地に生まれ[viii]、九歳の時に不空の弟子の一人であった曇貞について出家、その後不空に弟子入りした。不空への弟子入りの後、師から詳しく密教の教えを受けながら、二十二才の時に師より『金剛頂系』の密教を授けられた。同時に恵果は善無畏の弟子玄超より『大日系』の密教も授けられた。このことは、恵果にとって、弘法大師空海以前の僧としては唯一両部の教えを相承するとともに、後に空海に至る独自の思想を形成する素地となる。
 また十五歳の時に初めて霊験を現した恵果は、二十五歳の時、代宗皇帝に迎えられて長生殿で霊験を現し、その後帝の病気平癒を祈願したり、雨乞いの修法を再三にわたって行うなどして、朝野双方から受け入れられ、こうした名声は唐内のみならず、東アジアの各地から恵果の元へ留学する者が相次ぐ現象を招いた。さてこのように恵果の密教が順調に推移するなか、大暦九年(七七四)、師である不空の病が重くなり、不空は六人の弟子に密教の法灯を護持していく遺言を与えたが、もちろんこの六人の中に恵果もおり、時に二十九歳の時であった。
 この頃から恵果は青龍寺に住んでいた。この青龍寺は隋時代の皇帝文帝が遷都する際に、城中の墳墓を掘り、それを郊外に移してそこに創建した「霊感寺」が前身である。この寺がその後の各皇帝による廃寺や再興を繰り返し、その都度寺の名前も代わるなど変遷を経た結果、景雲二年(七一一)から青龍寺と呼ばれるようになった。伝統的に高僧の住む寺ではあったが、密教の道場となったのは、恵果の居住がきっかけである[ix]。青龍寺はその後、弘法大師空海も恵果を頼って来訪、ここで密教を恵果から面受されており、日本密教史上でも重要な寺である。
恵果は大暦十一年(七七六)、この青龍寺に代宗から東塔院を賜り、密教の灌頂道場を置いた頃から、以後徳宗、順宗と続く唐の歴代の皇帝から厚い信任を受けるようになり、また執務の面でも要職を歴任するなど、社会的信用と弟子からの信頼を強めていった。続いて大暦十三年(七七八)、勅命で師位を授けられ、健中元年(七八〇)、伝法阿闍梨となって、いよいよ密教を授け始めた。また授法のみならず、国家安寧を祈って再三雨乞いなど密教の修法を行った。
永貞元年五月(八〇五)、日本から弘法大師空海が密教の授法を求めて青龍寺の恵果の元にやってきた。当時病が進行していた恵果であったが、弘法大師空海の姿を一目見るなり、「われ先に汝が来ることを知りて相い待つこと久し。今日相い見えること太だよし、太だよし」と慶んだという。更に、弘法大師空海といくつか言葉を交わした恵果は、弘法大師空海の才能を確信して、「報命つきなんと欲すれども、不法に人なし。必ずすべからく速やかに香花を弁じて灌頂壇に入るべし」(以上出典『請来目録』)と告げ、六月に『大日経』に基づく胎蔵界灌頂を、引き続き七月には『金剛頂経』による金剛界灌頂を行って、弘法大師空海に両部の法を授けた。そして八月上旬、密教最高の儀式である伝法灌頂を執り行って密教代八祖、阿闍梨空海を誕生させた恵果は、弘法大師空海の手で日本へ持ち帰らせるための多数の曼荼羅や、仏画、法具、など密教に欠かすことのできない品々を準備した。そして十二月になると、弘法大師空海を枕元に呼んで「もはや心残りはない。汝はすぐに故国に帰り、この密教を天下に広めよ」と命じた。弘法大師空海が、留学期間を大幅に早めてわずか二年で帰国したのは、師であるこの恵果の最後の言葉によるところが最も大きいであろう。こうしてすべてを終えた恵果は、その住まいである青龍寺において六十年の生涯を終えた。
 
 三.恵果の業績の中国密教史上における意義と位置付け
前項では主に主要参考文献に依拠しつつ、恵果の一生を追いながらその中で主な業績を俯瞰してみた。前述したように数々の業績を持つ恵果であるが、整理すると二つの大きな業績に目がいく。
一つ目はなんといっても両部の大経を相承したうえに、この両部を同等とみなして一元的に捉えた思想の確立であろう[x]。特に密教発祥の地であるインドですら出現しなかったこの思想は、中国密教のみならず密教全体の発展につながったのではなかろうか。また、テーゼ対アンチテーゼの構図からからジンテーゼを生み出すという、西洋では一〇〇〇年以上も後に誕生するヘーゲル弁証法的考え方を、恵果が既に持っていたという点は密教という枠を越えて特筆されるべきではなかろうか。
二つ目は、弘法大師空海の才能を直ちに見出し、その密教のすべての伝授したことである。このことは、中国では恵果の入寂後、道教の勢力拡大によって急速に密教が衰退したにもかかわらず、日本では一〇〇〇年以上を経て、尚、当時の密教が継承され盛んに活動している歴史を振り返ると、これも密教史全体に対して大きな業績といえるであろう。
 
まとめ
 恵果を取り上げたことによって、恵果に関する各先行研究を俯瞰したが、その方法論の制約を受けるためか、中期中国密教のという枠組みの中でのみその人物像が論じられ、また思想的意義が解説される。また恵果による金胎不二の思想の確立は、長い密教史上でも一大エポックであるにもかかわらず、恵果直接の著作が皆無[xi]とはいえ、その学究上の取り扱いが地味すぎる。特に日本密教史を語る上では欠くことはできず、ことに現代のような所有欲にあふれ殺伐とした時代においては、恵果の、その物欲がなく、温和な人物像ともどももっと高い評価がなされるべきではかかろうか。


[i] 武内孝善、奥山直司、佐藤永伸著、「密教史概説の手引き」、高野山大学通信教育室、二〇〇四年、八頁
[ii] 武内孝善、奥山直司、佐藤永伸著、前掲著、三一頁
[iii] 立川武蔵、頼富本宏編、『シリーズ密教三 中国密教』、春秋社、一九九九年、二五~三三頁
[iv] 松長有慶著、『サーラ叢書十九 密教の歴史』、平楽寺書店、一九六九年、一三二頁
[v] 松長有慶著、前掲著、一三六頁
[vi] 松長有慶著、前掲著、一三七、一三八頁
[vii] 松長有慶著、前掲著、一三八頁
[viii] 立川武蔵、頼富本宏編、前掲著、五六頁
[ix] 立川武蔵、頼富本宏編、前掲著、七〇頁
[x] 例えば、松長有慶著、前掲著、一四七頁や、立川武蔵、頼富本宏編、前掲著、五七頁など、テキスト、主要参考文献にはいずれもこの業績を称える著述が見られる。
[xi] 松長有慶著、前掲著、一四六頁
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