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へんろ道に咲く花1輪・・・そんな花になりたい・・・
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はじめに
 空海は、弘仁七年(八一六)六月十九日、嵯峨天皇に対して、高野山の地を賜りたいと請願された。天皇の許可は翌月に下り、ここに高野山の歴史が始まった。以後、高野山は幾多の栄枯盛衰を経て、現在では、世界的な宗教都市としての地位を揺ぎ無いものとしている。ここでは設題の留意点に従い、高野山の開創について論じてみたい。
 
一、開創の目的と高野山が選ばれた理由
 まず、空海はどのような理由で高野山を開創されたのであろうか。唐より帰国後の空海は、嵯峨天皇の庇護もあって、東大寺や乙訓寺の別当を任ぜられるなどその地位を高められていた。そして京の都の奥にある高雄山寺を住房として、済世利人の願いのもと、全国各地に布教の旅を続けられていた。その一方で、空海には、密教の基本である修行と修学の場を作りたい、そこでいつの世までも人を救い、利を施すための人材養成を行いたい、という願望がおありだった。そのような聖地として住房のある京の都は不適当であった。どこか都の栄華や喧騒を離れた場所でなければ、弟子達の教育は行いがたかった。密教の道場としては、都から離れた深山が相応しかった。そのような道場を築くべく理想の地を求めて遍歴する空海には、求聞持法の修行時代に訪れた紀伊の国の高野山があった。これらのことは弘仁七年(八一六)六月十九日に空海が嵯峨天皇に提出された上表文から明らかである。そこでは、
 
 金刹銀台は櫛のごとく朝野に比び、義を談ずる竜像は寺毎に林をなす。法の興隆は是において足んぬ。但だ恨むらくは高山深嶺にし四禅の客乏しく、幽藪窮巌に入定の賓稀なり。実に是れ禅教未だ伝わらず、住処相応せずが致すところなり。今、禅教の説に准ずるに、深山の平地尤も修禅に宜し。
 空海、少年の日、好んで山水を渉覧せしに、吉野より南に行くこと一日、更に西に向かって去ること両日程にして、平原の幽地あり。名付けて高野と曰う。計るに紀伊国伊都郡の南に当たれり。四面高嶺にして、人蹤、蹊道絶えたり。今思わく、上は国家の奉為に、下は諸々の修行者の為に、荒藪をかり夷げて、聊か修禅の一院を建立せん。
 
とあり、「仏法の真の興隆は単に教義を論ずるだけでなく、自ら深山
幽谷にあって瑜伽の実践による真理の体得こそ肝要である。いま経
軌(筆者注:経典と儀式法規)によって見るに、紀伊伊都郡の平原
の幽地、高野山こそ、もっとも修禅にかなった地である」[i]と、
言われたのである。こうして、密教の道場として今日まで続く高野
山の歴史が始まることになった。
 
二、高野山開創にまつわる伝承の検証
 高野山で最初に拓かれたのは壇上伽藍界隈であり、ここには丹生津姫命と狩場明神が祀られている[ii]。このことは、この両明神が、高野山の開創に深く関わっていることを示している。それではこの両明神は、どのように関わっていたのであろうか。
 『今昔物語集』によれば、弘仁七年(八一六)六月ごろ、適地を求めて遍歴中の空海は、大和国宇智郡で、南山(高野山)の犬飼と名乗る猟師から高野のことを聞き、その猟師の二匹の犬に導かれて高野山へと向かわれる。そしてこの猟師は、高野山の地主神、狩場明神だったという。
 次に空海は、紀伊国との境で出会った一人の山人に伴われ、高野の地に到着されたとき、その山人から高野の領地を譲り受けられた。この山人は高野の地主山王(丹生明神)の化身であったという。そしてそこに林立する檜の枝に、唐は明州の浜から、「伽藍に建立するのにふさわしいところがあれば、教えたまえ」と祈念して投げた三鈷が突き刺さっていたという[iii]
 それはさておき『今昔物語集』とは、インド、中国、そしてわが国の仏教説話や民俗説話を集めた説話文学である。説話文学であるからしてそれは、読み手の興味を惹くために、意外性や異常性を有しているものの、その話の内容は、事実または事実と信じられてきたことを、口承によって伝えられてきた[iv]、という性格を持つ。すなわち、面白さを引き出すために文学的に脚色されているところがあるとはいえ、その話の出所は伝説ではなく、事実もしくは事実と信じられてきたものなのである。そうすると、『今昔物語集』に取り上げられているこの高野山開創の説話の出所もそうでなくてはならない。するとこの話のその出自はどこにあるのか。ここで俎上に上ってくるのは、狩場明神と丹生明神の存在である。この存在に関しては、夫婦である、親子であるなど、さまざまな見解があるが、ここでは事実に極めて近いと思われる過去の見解を上げて論じてみたい。
 先ず狩場明神のほうであるが、この話を、奥州山寺の開創と深く関わりをもつ磐司磐三郎の説話と同様のタイプだ[v]、とする説を取り上げたい。ちなみに磐司磐三郎の説話とは次のような話である。
時は奇しくも高野山開創の時と相前後する頃、比叡山延暦寺の僧慈覚大師円仁は、諸国行脚の途中山深い奥羽の地に布教をしようと二口峠(磐司岩)を旅していた。大師は奇岩がそそり立つ壮観な景色(現山寺)に心を引かれるとともに、ここに山寺を築こうと決意した。ここで土地の主である磐司磐三郎と面会、布教活動の許しと土地の借用を願った。磐司磐三郎は大師の功徳と説法に感動、慈覚大師の開山に全力を尽くして助力したため、のちに地主権現として祀られた、という。
つまり、狩場明神その人は、磐司磐三郎が山寺界隈の狩人の首領であったと同様に、高野山に狩猟権と祭司権を持つ山人で、実際に高野山を支配する司祭者であった。そこに、高野山の地を密教の道場とされたい空海が訪れて、この山人との間に、高野山の利権に関わるなんらかの交渉や契約が行われた事実が、磐司磐三郎のケースと同じように、その後狩場明神として祀られ、今日のような高野山開創伝説が生まれた、と考えられる。
 ここでこれまでの考察を整理すると、
     空海が密教の道場に相応しい土地を探して高野山近辺を遍歴していたとき、高野山の狩猟権と祭司権を持つ山人がいて、高野山を宗教的に支配していた。
     空海がこの山人となんらかの形で対面し、高野山に密教の道場を建立すること希望を打ち明けあけたところ、その希望に山人が応じたこと。
     このような経緯からこの山人は高野山開創になくてはならなかった人物であり、後に神格化され祀られた。
この三点が出自ではないかと考えられる。こうした事実が、わが国の仏教説話の一つとして『今昔物語集』に収められるにあたって、読者を魅了するために脚色されて、現在伝わる形になったものと推測される。つまり、高野山の領地を空海に譲ったのは、当時高野山を宗教的に支配していた山人にほかなるまい。
そうなると、丹生明神の方はどうであったのか。これを解く鍵として高野山開創にあたっての空海と紀伊国造家、紀伊国造家と丹生氏の関係がある[vi]。そしてその根拠となるのが、高野山下賜の勅許を得られた空海が、紀伊国在住の有力者に宛てて、高野山開創の助成を依頼した一通の書状である。以降テキストに依拠しつつ考えてみたい。
 この書状には、高野山開創を考察する上で重要な、次のようなポイントがある。
     空海の先祖である太遣馬宿禰は、この書状の宛て人の祖である大名草彦のわかれであること。
     空海が、密教の道場を建立したく、その土地として、高野山が最適、と打ち明けられていること。
     そこで嵯峨天皇に高野山の下賜をお願いしたところ、許可がでたこと。
     高野山の開創にあたっては、この宛て人から援助を受けたいこと。
以上の点から導き出されるもっとも重要な事項は、この宛て人が誰かということになる。この宛て人に関しては、過去いろんな見解がなされてきたが、最も有力なのは、それぞれ大名草日彦を先祖にいただく紀伊国造家の紀直氏か、あるいはそれと祖を一にする丹生祝家の丹生氏である、する見解である[vii]
この点について武内孝善先生は、この宛て人を丹生氏とする方がより現実味を帯びる、述べられている[viii]
その理由として武内先生は、地理的な面を挙げられている。すなわち紀伊の国に一大勢力を誇っていた紀直氏の本拠から高野山の地理的な距離を考慮すると、それは助力を願い申し出るには遠すぎる。それに比して丹生氏は高野山麓の天野に鎮座する丹生津比売命を祭祀していたため、実際に当時未開の高野山へ伽藍を建てるという、一連の困難を考えた場合、高野山から近い、丹生氏に助力を申し出られた方が現実的であろう、と武内先生は述べられている[ix]。また山陰加春夫先生は、『今昔物語集』の高野山開創説話は、丹生津比売神社の、十二世紀当時の中核的な信仰圏を暗示していると考えられる、と述べられている[x]。すなわち高野山を含む紀伊国伊都郡の南の山間部は丹生氏の宗教的支配の及ぶ地域であったわけである。これらの先行研究から、宛て人は極めて丹生氏である可能性が高い。
しかしながら現在のところそれを裏付ける決定的な資料に欠け、いずれであるかを断定するには、きわめて示唆にとむ。
ただ過去の様々な研究から推し量ると、高野山の伽藍建立にあたっては、空海に有力な援助者が存在し、その援助があって伽藍が建立されたという事実に間違いはなく、そのときの助力貢献によって後に丹生明神という名称を与えられたと考えられる。
 
まとめ
 昨年宗派などを超え近畿二府四の社寺が結束して神仏霊場会を設立した。この設立には、「明治政府の国策によって壊された神仏共存の宗教体制を見直し、民衆レベルでの日本人の信仰観を復興させよう」という狙いがあるが[xi]、その奥底には「自然による救い」という古来我々の祖先たちが抱いていた信仰心が存在するのではないか。空海はそうしたことをよくご存知であって、雄大な自然を有する高野山に密教の道場を築くと同時に、自然を神として畏敬の念を抱く当時の民間信仰をも大切にされたのであろう。


[i]高木訷元著、「空海 生涯とその周辺」、吉川弘文館、一九九七年、二〇一頁
[ii] 松長有慶、高木訷元、和多秀乘、田村隆照著、「高野山 その歴史と文化」、法蔵館、一九九八年、一六二頁
[iii] 武内孝善著、「空海素描」、高野山大学通信教育室、二〇〇四年、二四七~二四九頁
[iv] 下西忠著、「密教と説話文学」、高野山大学通信教育室、二〇〇八年、一頁
[v]松長有慶、高木訷元、和多秀乘、田村隆照著、前掲著、一六四~一六五」頁
[vi] 高木訷元著、前掲書、二〇四頁
[vii] 高木訷元著、前掲書、二〇六頁 
[viii] 武内孝善著、「弘法大師伝承と史実 絵伝を読み解く」、朱鷺書房、二〇〇八年、一七七~一七八」頁
[ix] 武内孝善著、前掲書、一七七~一七八頁
[x] 高野山大学選書刊行会編、「高野山大学選書第一巻 高野山と密教文化」、小学館スクエア、二〇〇六年、二七頁
[xi]「日本人本来の信仰は」 朝日新聞二〇〇九年一月三〇日付記事
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 はじめに
 空海と最澄の交友史を考察する上でその直接の出発点となる資料は、大同四年(八〇九)に最澄が空海に宛てた、経典類の借用の書簡であるが、その理由を問うてみると、二人の渡唐からその答えが現れる。よってここでは二人の渡唐からその交友について論じていきたい。
 
一、二人の渡唐
 先ずは空海の渡唐についてその経緯を見てみたい。過去をさかのぼると幼きころより仏心を抱かれ、伯父の勧めで京の大学に入学された空海であったが、その仏心はますます大きなものとなり、ついに官僚になるための大学を去り、仏門へと入られることになる。その後虚空蔵求聞持の法を修するために、ひたすら修行の日々の後、遂に室戸岬にて夜明けの明星が飛び来て、求聞持の法が結実する。この際の神秘的な体験が、渡唐に向けての一つ目の契機になると考えられる。というのもこれがきっかけとなって本式に出家され、僧空海が誕生し、そしてこの神秘的な体験がいかなる世界であるかを、その後探求する道に入られたからこそ、その後の『大日経』との出会いにつながるからである。
 さて、神秘体験の世界を探求される過程で『大日経』を発見された空海であったが、精読するもその奥義は当時の空海をもってしても明らかにはならなかった。というのも、『大日経』の内容は、密教の奥義を極めた人から直接面授されないかぎり読んだだけではわからない行法が多数載っているからである。また面授してくれる師も当時の日本には存在しなかった。ここが渡唐の二つ目の契機になると考えられる。すなわち日本では解決できない問題であるから渡唐し、しかるべき人から直接面授してもらおう、という決意へとつながるからである。そうして慌しく渡唐される空海であったが、唐へ向かう四隻の船団の第二船に、天台宗の開祖である最澄が乗っていた。二人は奇しくも同時期の遣唐使船で渡唐することになったのである。時は延暦二三年(八〇四)のことであった。
 次に最澄のほうであるが、こちらも幼少時より「志仏道を宗と」しており[i]、十二歳で近江国の僧行表の元に身を投じ、十五歳で得度を行った。その後空海同様山林内に修行の地を求め、比叡山に草庵を結ぶ。この間に最澄が見出したのが、当時まだ日本に受け入れられていなかった天台宗の教えであった。ここにも空海と同じような、最澄の渡唐の素地が見出せる。
その後天皇のために病気平癒の祈祷を行う内供奉に任ぜられ、また延暦二十一年(八〇二)には、高雄山寺で開かれた法花経の説法に出講して、天台主要典籍の講義を行うなどした。その結果時の天皇、桓武天皇の庇護を受け、天皇をして天台教学の興隆を諮らせしめ、ひいては最澄の、渡唐の道を開くこととなった。
さて、同じ船団で唐へ向かった二人であったが、空海の方は乗船した第一船が進路を大きくはずれ予定地のはるか南に着岸、その後二ヶ月かけて長安へ到着、ここで青龍寺の恵果との出会いが待ち受けていた。この青龍寺において恵果から伝法灌頂を受けられた空海は、恵果の指示どおり、二十年の唐滞在予定をわずか二年で切り上げ、多数の経典と共に帰国される。
一方最澄は、比較的予定地の近くに到着後、長安には向かわずすぐさま天台山へ向かう。それは最澄の目的が、天台教学の修学であったためである。ここで天台教学を授けられた最澄は、こちらは更に短く、わずか八ヶ月で所期の目的を達成したと判断、そのまま長安に寄ることもなく日本へと帰国する。
このような唐における二人の異なった行動が、その後の二人の交友に大きく影響することになる。
 
二、空海の『請来目録』
大同元年(八〇六)年に帰国した空海は、二十年という留学期間をわずか二年で切り上げて無断で帰国した重罪の所為か、または桓武天皇の崩御に伴う、朝廷内の一連の出来事の所為か、主たる原因は定かではないが、入京の許可を得られないため、四年近くの長きに渡って大宰府は観世音寺に足止めされることになった。
その間大同元年(八〇六)十月に空海は、唐から持ち帰ったおびただしい数の品々の目録を作成されている。これが『請来目録』である。空海はこの目録に上表文を添えて、朝廷へ提出されたが、それでも入京の許可は得られなかった。一方先に帰国していた最澄は、この目録に目を通す機会を得て、正当な中国密教経典の並ぶその内容に驚くことになる。そして最澄は、桓武天皇から密教の僧を養成するように命ぜられていたこともあって、いち早く空海と、空海が請来された品々を必要としたのである[ii]
 
三、二人の出会い
 大同四年(八〇九)二月三日、空海は、最澄に対して名書(名刺)を捧呈されたと伝えられている(『延暦寺護国縁起』巻下、『天台霞標』二編巻之一)[iii]。しかしながら、この名書は、後世天台宗の僧侶の手になる偽文書と考えられるので[iv]、実際に二人の最初の交友の証を示す、現存する最も古いものは、大同四年(八〇九)八月二四日に、最澄が空海に送った、十二部五十五巻に及ぶ密教経典借覧依頼の書簡である[v]。当時空海は、社会不安の増大を憂慮されており、嵯峨天皇即位の知らせを聞かれると、入京許可を待たずに、縁の深い和泉の国に移動、ここで大同四年(八〇九)七月に入京の許可を得て、高雄山寺に入られたばかりであった。すなわち最澄は空海入京の知らせをきくやいなや、すぐに書簡を送ったことになる。この頃の最澄は桓武天皇という強力な擁護者を失ったところへ、法相宗の圧力などもあって天台宗の得度者が次々と比叡山を去り、そこへ空海が入り込んでくる[vi]、という非常事態に直面しており、最澄としてはそれだけに一刻も早く密教関係の経典が必要だったわけである。
 この書簡は、それが送られる以前に空海とのなんらかのやりとりがあったのでは、と推測されるほど[vii]、簡単な内容であったが、空海は快くそれらの経典類を貸し出された。これを嚆矢として、最澄は次々と借用を依頼、空海はそれに応えられる、というお互い対面のない、経典類の貸し出しという形でしばらく交流が続く。
 
 四、行き違った灌頂
 その後空海は、弘仁元年(八一〇)に東大寺の別当を任ぜられ、次いで翌年には旧都・長岡京の乙訓寺の別当も任ぜられるなど、朝廷の信頼を厚くされていった。その乙訓寺に最澄が空海を訪ねたのが、弘仁三年(八一二)十月のことであった。ここに二人は、初めて対面することになる。この面会でのポイントは、灌頂に関して空海が正式に最澄からの申し出を受諾し、実際に灌頂伝授へとつながったことである。その結果、最澄への灌頂が、十一月十四日に金剛界の灌頂が、次いで十二月十五日に胎蔵界の灌頂がおこなわれた。ところがこの灌頂が、二人の間に溝をもたらす要因となる。
 というのは、この二回に渡って行われた灌頂は、仏さまと縁を結ぶための結縁灌頂であったからである。この灌頂は、入門を志す者であれば誰でも受けることが出来る。ゆえに最澄が希望していた僧侶向けの伝法灌頂とは大きな隔たりがあった。
 空海がわずか半年で伝法灌頂を受けたこと知った最澄は、自分もすぐに伝法灌頂を受けられるものと考えていたが、空海から「少なくとも三年は勉強を」と伝えられ、それでは空海のもとに留まることは出来ず、代わりに弟子を遣わして、比叡山へと帰ってしまう。
 この頃から二人の間がおかしくなり始めた。最澄が借りた経典類をなかなか返却せず、空海が返還督促状をしばしばしたためているのもその現れである。そうして二人の間を決定的に裂く要因となった出来事が二件起こった。一つは最澄の片腕であった弟子の泰範が空海の下に弟子入りしたこと、もう一つは、最澄が『理趣経』の注釈本である『理趣釈経』の借用を申し出て、それを空海が断ったことである。
 
 五、泰範について
 泰範は空海の十大弟子の一人であるが、もとは最澄が後継者と決めていたほど最澄にとって重要な弟子であった。一時はその信頼の余り妬みをかって比叡山から遠ざかる時期もあったが、その後最澄の勧めで、すなわち比叡山へ帰ってしまった最澄のいわば身代わりとして泰範は高雄寺へ上り、空海から灌頂を受ける。そして弘仁四年(八一三年)三月一六日に行われた灌頂の後、泰範はこのまま空海のもとに留まることを宣言する。驚いた最澄は、その後何度も比叡山へ戻るよう促すものの泰範はそれに従わず、ついに空海の弟子となってしまった。このことは空海、最澄両者の間に出来始めていた溝を、より大きくする結果となってしまった。
 
 六、『理趣釈経』の借用
 『理趣経』は、非常に誤解を招きやすい経典であり、修行なくして読むには危険な書物であった。そこで空海はこの経典の特殊性から、不空訳の最も重要な注釈書である『理趣釈経』を秘典としていた。この『理趣釈経』の借用を最澄は申し入れたのである。これに対して泰範の一件もあって、空海は長い断りの書簡を出された。この結果2人は袂を分かつことになってしまう。このことは両者亡き後、東密と台密の相克を生ぜしめることになる。
 
 まとめ(二人の思想観の相違)
 さて、最澄は、天台法門と真言法門との間には優劣を認めない円密一致の立場をとっていた[viii]。そこで密教といえども、経典類を熟読すれば、自ずと理解できると考えていた。一方の空海は、仏法に顕密二教の別ありとされ、真言ひとりを密教とし、天台法門は顕教の一つとみなされていた[ix]。そして密教は定められた修行を行い面受によってしか修得できない、と考えられていた。借用のごたごたや、灌頂の誤解など、決別の直接の原因に対して、その根底には二人の間の明確な思想的相違が存在したのである。とはいうものの、宗教をもって衆生を救いたいという、根本的な思いは両者とも同じであった。それだけに両者が決別しなければ、わが国のその後の歴史地図も相当変わったものになったに違いない。


[i]大久保良峻編、「山家の大師 最澄」、吉川弘文館、二00四年、四七~四八頁
[ii] 武内孝善著、「空海素描」、高野山大学通信教育室、二00四年、二〇九頁
[iii] 佐伯有清著、「最澄と空海―交友の奇跡―」、吉川弘文館、一九九八年、二五頁
[iv] 佐伯有清著、前掲書、二五頁
[v] 佐伯有清著、前掲書、二六頁
[vi] 佐伯有清著、前掲書、四八~四九頁
[vii] 武内孝善著、前掲書、二一二頁
[viii] 武内孝善著、前掲書、二三七頁
[ix] 武内孝善著、前掲書、二三八頁
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はじめに
 
 極めて個人的行為と思われる自殺を科学的にとらえたフランスの社会学者デュルケムは、自殺という現象を「個々の人間の心理から説明する」のではなく、「社会的な要因が人々を自殺に追い込む」という発想の元に、次のように自殺を類型化した。
①自己本位的自殺=社会や集団の統合が弱まり、個人が孤立した
時におきる自殺であり次のような特徴がある。
 ・配偶者を無くした人は未婚者より自殺率が高い。
 ・未婚者は既婚者より自殺率が高い。
 ・知識人・小説家は自殺率が高い。
  ・個人主義的傾向の強いプロテスタントの信者は、カトリック信者より自殺率が高い。
・農村より都市の方が自殺率が高い。
・戦争時より平和時の方が自殺率が高い。
 
    ②集団本位的自殺=社会統合が強すぎる状況で起きる自殺で、未
    開社会や軍人に見られる、宗教的な殉死。
 
  ③アノミー的自殺。アノミー(=欲望の無規制)という近代社会の特性(個人の欲求を規制する社会的規範が弛緩したことに起因)から生じる。
 
  ④宿命的自殺。欲望の規制が強すぎる為、著しい閉塞感に襲われておきる自殺。
 
 この分類を自殺のモデルとして僧の「入水」を当てはめてみると、それは、宿命的自殺と言えようか。このように、「入水」に対して新しい切り口から知見を得た上で、この説話を留意点に従い鑑賞してみたい。
 
 一.『宇治拾遺物語』について
 鑑賞に入る事前準備として、この説話が収められている『宇治拾遺物語』について、簡単に概観しておきたい。
     作者は未詳。今のところ、文筆に巧みな人間通である中世初頭の貴族知識人が想像されるところである。
     成立年代。建暦二年から承久二年頃の成立とするのが一般的とされるが、諸説ある。
     題名の由来。二説あり、一つは『宇治大納言物語』という先行の物語集に埋もれた話を拾い集めて、それ以後の話も書き足したとする説。もう一つは、『宇治大納言物語』の原本を伝えている宇治大納言の子孫が、「侍従俊貞」という人物で、「侍従」の唐名は「拾遺」というため、『宇治の捨遺(侍従)の物語』とする説[i]
     構成。十五巻、序文並びに百九十九の説話からなる。世俗説話である童話、笑い話、仏教説話である往生・転生譚、法験説話などが順不同に並べられていることから従来は「雑纂形態の説話集」とされてきたが、近年、これらの説話はばらばらではなく、『今昔物語』の様式とは異なるものの、ある種の関連性をもって繋がっているとする説が提唱されている。また、『今昔物語』や『古事段』と共通する話が多く、それらの説話集との関連が考えられている。
 
二.鑑賞
 この説話を一言で述べると、若い聖の入水往生をめぐる哀歓劇であろう。すなわち、何らかの事情で入水往生することになったものの、大勢の野次馬が見守る中で生への執着心が現れ、野次馬の一人に助けられるも、石を投げつけられる。これだけでも十分滑稽であるが、最後に後日談が付属してあるところにこの説話の喜劇ぶりが伺える。この面白みこそが説話文学のもつ妙味であるが、この説話を鑑賞するにあたって、その鑑賞上のポイントとなるのは、
①主人公が聖であること。
②背景にある無常の世界。
③随所に現れる仏教的トーン。
であると思われる。よって以下この三点に注視しながら、本文を追う形で鑑賞を進めてみたい。
 
「桂川で入水往生しようとした聖がいて、祗陀林寺で百日間の懺法(『法華経』を読誦して、罪障を懺悔する法の実践)を行ったので、人々がそこへ群がった。三十余の細身の聖で、瞑想的なさまをしつつ時々阿弥陀仏を唱えている。」
 
冒頭から早くも先述の三点が現れる。まず登場するのが聖である。聖とは本来、古代後期から南都北嶺の大寺院が権門化するのに抗い、大寺院(教団)から離脱して現世の苦悩、貧困、病苦などからの救済を、仏教上の思想から説く尊い存在である。本文においても人びとが、聖と縁を結ぼうとして、「その目に見合わせんと集ひたる者ども、こち押し、あち押し、ひしめき合ひたり」、という様子から窺うことができよう。このような聖という概念から得られる経験的指標が、現世を越えた非日常性であり、『宇治捨遺』には、世俗的な名聞利益や権力を拒絶した叡実など本来の聖の姿を追った説話がいくつもみられる。反面、そうした聖の説話とは裏腹に、非常に人間味を帯びた、名ばかり聖の話も収められている。『発心集』にも同じような往生譚である「蓮花城入水の事」において、入水の際に生への執着が生まれ、入水はしたものの往生できずにいる蓮花城という聖が登場するが、このような生への執着は極めて聖らしくない。
無常の世の中において、現世での絶望感から来世での期待感を抱いて自殺往生する人は多かった。これこそ冒頭で述べた宿命的自殺以外の何ものでもなかろう。とりわけ遁世者にとっての閉塞感のそれは、俗人に比して大きかったと思われる。このような閉塞感から救われる場が浄土であり、そこに極楽往生を深く尊ぶ往生の思想が感じられる。また平安中期以降、往生伝が各種存在することから、この説話を鑑賞するにあたって、この往生思想が流行した時代背景を看過してはなるまい。
 
「往生が予告された日の朝、聖は雑役車に乗って何やら行を営んでいるようだが、人に目を合わせることもなく時々大きな息をついている。行く道に立ち並んでいる見物の者たちが、うちまきの米を聖に向かって撒き散らすと、聖は、苦痛を訴え、「その米を紙袋に入れて私のもといた寺に送ってくれ。」と訴える。下賎の者は、手をすって拝むが、少し分別のあるものは、「これから入水往生しようとするものが、もといた寺へやれ、目鼻に入って痛いなどと言うのはおかしいことだ。」、と不信を抱く。」
 
このあたりから聖の様子がおかしくなり、出だしは尊い往生譚であった気配が希薄になり始める。そうしてこの状況は次で更に悪くなる。
 
「川原の石よりも多くの人が集まるなか、桂川のほとりに着いた聖は時刻を尋ね、申の刻であることを知ると、「往生の時刻にはまだ早い。もう少し暮れるまで待て。」、という。待ちかねて、遠くからきた人の中には帰る人も現れ、川原は人少なげになったが、熱心な者は未だ残り、「往生には時刻を定めるであろうか、おかしなことだ。」、と言う僧もいる。」
 
 ここにきていよいよ聖の生への執着が完全に露呈する。この部分はそれを不審に思うある僧とのコントラストが妙味である。
 
「まもなく聖は裸体になり西方に向かって入水しようとするが、船ばたの網に足がひっかかってしまう。弟子が外してやると身体はさかさまに沈んでいく。動転して水中でもがく聖を野次馬の一人が助けてやると、聖は「このご恩は極楽でお返し申し上げましょう。」と礼を言って入水を放棄し、陸の方へ走り上がって逃げ始める。これを見て残っていた者達が、撒きかけるように聖めがけて川原の石を投げつけたため、聖は頭を打ち割られてしまった。」
 
 ここでは一連の入水騒動の顛末が書かれているが、注目すべき点が二つある。まずは仏教的トーンが最高に感じられる、「西にむかいて」という一文と、「このご恩は極楽にて申し候はん」という一文である。この二つの文から多くの読み手の脳裏に浮かぶのは、間違いなく西方の極楽浄土であろう。往生思想が広く流布していた時代背景が浮かぶと同時に、本説話が仏教説話であることをひしひしと感じる部分である。
 今一つは、「川原の石を取りて、まきかくるように打つ」とう一文である。この「まきかくるように打つ」とあるのを見て、前半のうちまきの部分が想起されるのは容易なことである。聖がものを撒き散らされる点で前半と同じ状況ではあるが、方や入水する行為を尊敬して撒き散らされる米、方や入水を放棄して人びとの敬意を失ったために撒き散らされる川原の石。前半と後半で人びとの聖への異なる行為の対比が面白い。
 聖が生に対する執着心を覚え、円滑な入水が出来なかった点では、先述した蓮花城の場合に似るが、蓮花城の場合は、極楽往生できず、その無念さを知人に冥土から伝えるという顛末に至るのに対し、こちらの聖は石を投げつけられるも一命は取り留めている。同じ往生譚でも、『発心集』では、暗い感じを覚えるのに対し、『宇治拾遺』では、滑稽な感じを覚える。特に、聖が野次馬に対して手をすり合わせて礼を言うところや、陸に走り上がる場面などは、非常に生に執着する人間臭さが表現されており、これが滑稽さを増長させる。いずれにせよ『発心集』、『宇治拾遺』それぞれの作品の特徴がはっきりとわかる両説話ではある。
 
さて先述したがこの説話はここでは終わらず、「この法師にやありけん~」と、後日譚が控えているのがこの作品の更にユーモラスなところである。特に命からがら逃げ出した聖が、入水の失敗をわるびれもせず、むしろしたたかに自分のことを、「先の入水の上人」と称しているところが白眉である。上人とは、もっぱら天台宗とそこから分派した浄土宗、時宗、日蓮宗などで使われる僧侶の敬称である。法然上人などはその代表格であるが、そのような名だたる僧侶を差し置いて、この聖が入水に失敗した自分を同じように上人と自称しているところに、この説話の滑稽さのエッセンスが現れているように思われる。
 
まとめ
先述したとおり、当時は往生極楽思想が深く尊ばれており、現世をはかなく思い、来世への期待感から断食・入水・焼身・縊死などによる様々な自殺往生が行われた。つまりそのような社会的要因が、人びとを自殺往生に導いたのである。こうした時代背景をもちつつしたためられたこの説話は、ある聖の滑稽な入水往生顛末記の形をとりつつも、当時の世相への辛辣な風刺を投げかけているような気がしないでもない。


[i]小林保治訳、「現代語訳学燈文庫 今昔物語集・宇治拾遺物語」、学燈社
 
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はじめに(仏教説話の条件)
 
 先日ある新聞に下のような興味深い記事が掲載されていた。
 
スズメバチ逆襲し寺全焼=副住職、巣を焼こうと 新潟(時事通信社九月三日)

 三日午前九時半ごろ、新潟県小千谷市岩沢の寺「和光院」から出火、木造約一三〇平方メートルを全焼した。県警小千谷署は、佐藤篤副住職(四一)がスズメバチの巣を焼き払おうとし、火が燃え移ったのが原因とみて調べている。佐藤副住職は顔などをやけどしたが、命に別条はないという。

 調べによると、佐藤副住職は竹の棒の先に火を付け、寺の食堂の押し入れ内にあったスズメバチの巣を焼き払おうとした。しかし、スズメバチの逆襲に遭い、火が付いたままの棒をその場に投げ捨てて避難。火が寺に燃え移ったという。 
 
 要約すると、新潟県小千谷市にある和光院という寺の副住職が、寺の食堂の押し入れ内にあったスズメバチの巣を、竹の棒の先に火を付けて焼き払おうとしたところ、スズメバチの逆襲に遭遇。火が付いたままの棒をその場に投げ捨てて避難したところ、その火が寺に燃え移り、その結果寺は全焼した、という話である。
この寺の関係者にとっては誠に気の毒な話ではあるが、これはまさに平成版仏教説話に出来そうな話ではないか。このニュース記事は、ソーシャルネットワーキングサービス(SNS)の大手、ミクシーでも取り上げられ、記事を読んだ多くの読者は、寺や寺関係者に同情しつつも、「僧侶が生き物を殺しては駄目だ」、とか、「僧侶なのに追い払い方がひどい」、「蜂の復讐がみごとだ」などそれぞれ興味深げにコメントを行っていた。つまりこの記事は、
①出来事内容の意外性、
②記事を読む者の興味を惹く点、
③僧侶の人間的な行為が描かれている点、
など、仏教説話として成立するためのとしての萌芽的条件があり、優れた書き手の手にかかれば、文学的価値を持つ仏教説話に転身できそうである。逆にいえば、現存する今昔物語や方丈記、徒然草などの作品に記された仏教説話も、元はといえばこのような類の事件が口承され、それが鴨長明や兼好などの優れた文筆家の手にかかることにより、文学的価値を帯びた説話へ姿を変えたのであろう。
実際過去の説話に、この話の兄弟のような話がいくつか存在する。たとえば蜂の復讐と僧侶に関しては、今昔物語中に、「蜘蛛が蜂の復讐を逃れる話が存在する。また、生き物を追い払おうとする類には、徒然草第十段に、「家居のつきづきしく」という題をともなって、後徳大寺左大臣の神殿に鳶をとまらせまいとして縄を張ったのを見て西行が興ざめする一方、綾小路宮の居る小坂殿の棟に、池にいる蛙が烏に捕われるの気の毒に思った宮様が縄をひかれた云々、という話が存在する。
このように、僧侶にまつわる意外性を帯びた出来事を描写し、見事な文学作品として今日まで伝えられている作品の一つが徒然草である。以下、留意点に従い、二三六段「丹波に出雲というふ所あり」の説話を鑑賞してみたい。
 
一.徒然草の概略
鑑賞に入る前に、鑑賞の事前準備として、先ず徒然草という作品に関して概略を簡単に列挙しておきたい。
・作者は兼好(一二八三年(弘安六年)頃~一三五〇年(観応元年)頃)。本姓は卜部。京都吉田神社の神官の家系の生まれ。後宇多上皇の時代に北面の武士として左兵衛左に至るも、三十歳前後で出家。二条派の歌人としては四天王の一人に数えられ、家集「兼好法師集」。
・作品の成立は、大部分が元徳二年(一三三〇)末から元弘元年(一三三一)の秋にかけての一年間に成ったとする説が一般的だが、長期にわたり逐次成立したという説もあり。
・内容・構成であるが、序の他二四三段。各段はそれぞれ独立したテーマをもって書かれており、その内容は、説話・処世訓・自然観照文など多岐にわたるが、その世界を貫くのは、個人の体験や思考に裏打ちされた作者独自の無常観。
 
二.鑑賞
 この説話を一言でまとめると、独善的な一人の僧侶による失敗談であるが、その失敗談が、
     起承転結がはっきりしていること。
     最後に待ち受けるどんでんがえし。
の二点によって、非常に読み手の興趣を誘う作品にしあがっている。よって以下この二点に着目しながら鑑賞してみたい。 
 
ア 起の部分
 原文では、「丹波に~信おこしたり」までが該当する。簡約すると下のようになる。
「丹波の国に出雲大社を勧請して作られた社殿があり、そこの支配者が聖海上人をはじめとして多数の人々誘って、一同を連れていくと、一同は皆深い信心を起こした。」
大社とは杵築大社、すなわち現在の出雲大社をさす。また、この社殿は現在の京都府亀岡市にある丹波国一之宮出雲大神宮のことであり、すなわち現在の出雲大社をうつしたものである(但し、出雲大神宮の案内によると、むしろ出雲大神宮の方から先方へ分霊した、とある[i]。)。丹波国の一之宮として、「当時は広大な所領を抱えるなど、全国的に見ても社勢大にして、上下の尊崇極めて篤い神社」であり、現在も残る。「めでたく造れり」、すなわち立派に造営してある、という一文に、その社の大きさが創造できる。この「めでたく造れり」の一文が、後に述べるがポイントになる。
 
イ 承の部分
 「御前なる~など言ふに」が該当する。簡約すると下のようになる。
「上人が社殿の前にある獅子・狛犬が、背中合わせになって後ろ向きに立っているのにひどく感動し、一同に、「この素晴らしさに気づかないのはいけないことだ」言ったところ、一同も感動して「都への土産話にしよう。」などと言ったため、」
この部分で聖海上人の極めて権威に弱い様が描かれる。この権威主義こそ、遁世する兼好にとっては格好の批判の対象であることは言うまでもない。すなわち、立派な社にすっかり感服した上人は、その威力に洗脳されてしまい、本来の習わしであれば、社殿の前に、向かって左に獅子が、右に狛犬が置かれているべきところ、ここの社では、獅子・狛犬が、背中合わせになって後ろ向きに立っていることに対しても、一塵の疑問ももたず、感服して、「なんと素晴らしい。この獅子の立ち方の珍しさよ。深いいわれがあるのだろう」と涙してしまう。この部分に上人の権威に対する弱さと、その極めて純粋な好人物ぶりが描かれている。また上人はその感動を、皆に伝えようと、しかも、したりがおで、「なんと、みなさん、こんな素晴らしいことにお気づきにならないのはあんまりです。」と人々に共感を促す。「むげなり。」は、よくないこと、すなわちここでは、獅子と狛犬の向きに気づかないことのはなはだしさをしめしている。上人の強い口調により、そこで一同も何の疑いも抱かず、「ほんとうによそとは違っています。都への土産話にしよう」とまで言い放ち、ますます上人をその気にさせてしまう。
ウ 転の部分
転の部分は、「上人なほ~去にければ」が該当する。簡約すると下のようになる。
「上人はさらにその由来を知りたくなり、年配の分別ありげな神官にそれを問うたところ、神官は「そのことですが、これは子供のいたづらでじつにけしからんことでして。」と言って獅子・狛犬の向きを据えなおしてまったため、」
承の最後の部分で人々に共感を促し、ますますそのありがたさを強く意識した上人は、いわれを知りたくなり、年配の、そしてこの社のことを詳しく知っていそうな神官に問い掛ける。その問いかけに対する神官のまず答え方がの出だしが面白い。「そのことに候」すなわち、「そのことでございます」という前置きがあって本題にはいる。この前置きによって、まだ何も知らない上人はもとより、われわれ読み手も、次に続くであろう神官の答えに一層期待感を高めてしまう。
しかし神官の口から出た答えは、意外にも「こどものいたずらでとんでもないことでして」と、期待はずれどころか今まで上人や読者が抱いてきた感を一蹴してしまうものであった。更に神官は「獅子・狛犬の向きを正しく据えなおしさっさと立ち去った」ことにより、感情的な上人と冷静な神官の対比ぶりが伝わり面白い。
エ 結の部分
この作品の首脳でもある結の部分は「上人の~なりにけり」が該当し、訳すると下のようになる。
「上人の感涙は無駄になってしまった。」
涙するほどまでに獅子と狛犬の向きをありがたがり、同行者にまで同情を促した上人の、一連の行動のすべては、無粋な神官の言動によって簡単に否定されてしまった。上人がありがたがり涙したいわくありげな獅子と狛犬の変わった置かれ方は、単なる子供のいたずらが原因であったからである。そして神官はいとも簡単に向きを普通の置き方に戻してしまった。
当の上人のばつの悪さや、その場の空気などは具体的には書かれていないが、読み手にはこの一文により、立場をなくした上人の様子やその場の雰囲気が手にとるように想像できる。むしろ却って簡単に切り上げているために、小気味がよい。しかしこの簡単な一文には次で述べるように説話上重要な意味を含んでいる。
 
まとめ
兼好は、好人物である聖海上人の失敗談を、起承転結ではっきりと構成された文章により、また最後の効果的などんでん返しによって読む者に確実におもしさを伝えた。しかし兼好の伝えたかったことは面白さよりむしろ、この作品のテーマ、すなわち作品最後の「上人の感涙いたづらになりにけりに」こめられた、権威主義に対する痛烈な批判であろう。すなわち兼好は、聖海上人という権威主義側の僧の振る舞いをおもしろおかしく語ることで、権威主義を皮肉っているのである。よってこの説話は、徒然草全体に貫かれる兼好の合理的精神が味わえる好説話といえよう。


[i] 出雲大神宮公式ホームページより。
 
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現代人の心と密教について
弘法大師空海の密教思想と現代社会を支配する個人主義思想
1.はじめに
 「袖触れ合うも他生の縁」ということわざがある。袖が触れ合うようなちょっとしたことも、前世からの深い因縁によって起こるものであるということを意味するが、噛み砕いて言えば、道を歩いていて他人と袖が触れるくらいの事でも多少ご縁があるということになろうか。このご縁というのは多少ではなく他生、つまり前世の因縁やご縁がこの世に続いているからであろう。
ところが現代は、他人と袖が触れ合いでもすれば、罵声を浴びる位ならまだましで、下手をすると命まで奪われかねない物騒な世の中である。一方で遍路体験者なら、このことわざが今も生きていることをよく知っている。遍路道を歩けば、たった今出会うまで全く見知らなかった地元の方からお接待を受けたり、遍路同士が身分、出身地の区別なくの挨拶を交わし、宿ではしごく打ち解けて旧知の友であったごとく自然と会話を交わす。彼らは、自分の存在が他者と関わることによって成り立つ、という考を知らず知らずのうちに身に付けているのである。
 ここでは、まず弘法大師空海の密教思想を踏まえた上で、何故このような時代が出現したのか、またこの時代に生きる人々はこれから何に価値を見出し、それに対して密教は何を行うべきかを考察することによって以下設題に答えたい。
2.弘法大師空海の密教思想
『即身成仏義』は、弘法大師空海が弘仁八年から弘仁十年の間に書いたとされ、弘法大師空海の密教思想の研究上、その根幹をなすと考えられる重要な著作である。すなわち弘法大師空海は本著作において、まず二頌八句の詩を挙げて、この詩の意味を解説する形で、密教の根本教義たる「即身成仏」の思想を詳らかにしようとした。本項ではその詩の特に一行目と二行目に着目して以下稿を進めたい。
先ず一行目において弘法大師空海は次のように詠われた。
六大無礙にして常に瑜伽なり
すなわち、存在を構成する六つの要素、地・水・火・空・風という五大と、それらを認識する識という要素は、「無礙にして常に瑜伽なり」、つまりばらばらに存在するのではなくお互い溶け合って混じり合って存在している、とされたのである。このことは、物質と精神は個々別々に存在するのではなく、互いに入り混じって一体となって存在することを示している。
次いで二行目では次のように詠われている。
四種曼荼各々離れず
ここでは先に述べた存在を存在たらしめる相について弘法大師空海は解説されている。それは、存在の現われ方を説明するところの四つの曼荼羅は、表現方法こそ異なるものの、それぞれ離れることはない、とする。すなわち、様々な様相を見せる存在の実相も、帰するところ一であり、決して無関係に存在しているのではない、ということである。
この説明を人間に当てはめると、人間その一人一人は、単独で存在しているのではなく、互いに入り混じって存在し、且つ決して離れることのない関係で結ばれて存在しているのである、ということになろうか。
3.現代社会を支配する個人主義思想
現代は科学技術が著しく発展した社会である。それがもたらす恩恵により、現代社会は物質的には非常にめぐまれた社会だと言えよう。 
その反面失ってしまったものも多い。長く人々に規範を提供してきた共同体はおろか、社会の最小単位である家族さえもその機能を失わんとしているからである。とりわけ、戦後急速に物質的に豊かになった一方で、それに比例して民主化も進んだ我が国では、今まで抑えられてきた個を強調する教育が行われた結果、古くからその根底を支えてきた倫理観や規範というものが衰退し、極めて個人主義的な考え方が支配する社会の出現となったのである。また科学技術の発達が、この個人主義を助長させる働きを担ったことは言うまでもない。物質面にウエイトが置かれるのに反比例して、精神面が貧困化していったからである。
4.まとめ
現代人は、個人主義思想の蔓延した物質偏重の現代社会において、所属する共同体や家族を失い、どんどん孤立しようとしている。しかしながら、孤立しては、人は生きていけない。ここ2、3年の間にweb上で見知らぬ者同士がコミュニュケーションしあうSNSや、わざわざ他人に個人の日記を晒すブログなどが爆発的な人気を呼んでいるのをみると、結局のところ孤立して寂しい現代人が、他者との関係を求めて苦悩している様子が窺える。自らの存在の為には、すなわち生きる為には、如何に他者との関係が大切であるか、それを失いつつある今、ようやく気づき始めたのである。四国遍路の盛況ぶりもその一側面を現示しているのではないか。
そこで、密教には先述した弘法大師空海の思想に基づく知恵が存在するので、その知恵により、現在の個人主義思想に代わって、「存在=関係」の考え方を浸透させることが大いに望まれる。
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プロフィール
HN:
まお(真央)
性別:
非公開
職業:
フラワーデザイナー
趣味:
フラワーデザイン
自己紹介:
ここでは、おへんろ道に咲く1輪のお花になりたいまおが、おへんろとお花のことを想い、綴ります。
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