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へんろ道に咲く花1輪・・・そんな花になりたい・・・
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 はじめに
 空海と最澄の交友史を考察する上でその直接の出発点となる資料は、大同四年(八〇九)に最澄が空海に宛てた、経典類の借用の書簡であるが、その理由を問うてみると、二人の渡唐からその答えが現れる。よってここでは二人の渡唐からその交友について論じていきたい。
 
一、二人の渡唐
 先ずは空海の渡唐についてその経緯を見てみたい。過去をさかのぼると幼きころより仏心を抱かれ、伯父の勧めで京の大学に入学された空海であったが、その仏心はますます大きなものとなり、ついに官僚になるための大学を去り、仏門へと入られることになる。その後虚空蔵求聞持の法を修するために、ひたすら修行の日々の後、遂に室戸岬にて夜明けの明星が飛び来て、求聞持の法が結実する。この際の神秘的な体験が、渡唐に向けての一つ目の契機になると考えられる。というのもこれがきっかけとなって本式に出家され、僧空海が誕生し、そしてこの神秘的な体験がいかなる世界であるかを、その後探求する道に入られたからこそ、その後の『大日経』との出会いにつながるからである。
 さて、神秘体験の世界を探求される過程で『大日経』を発見された空海であったが、精読するもその奥義は当時の空海をもってしても明らかにはならなかった。というのも、『大日経』の内容は、密教の奥義を極めた人から直接面授されないかぎり読んだだけではわからない行法が多数載っているからである。また面授してくれる師も当時の日本には存在しなかった。ここが渡唐の二つ目の契機になると考えられる。すなわち日本では解決できない問題であるから渡唐し、しかるべき人から直接面授してもらおう、という決意へとつながるからである。そうして慌しく渡唐される空海であったが、唐へ向かう四隻の船団の第二船に、天台宗の開祖である最澄が乗っていた。二人は奇しくも同時期の遣唐使船で渡唐することになったのである。時は延暦二三年(八〇四)のことであった。
 次に最澄のほうであるが、こちらも幼少時より「志仏道を宗と」しており[i]、十二歳で近江国の僧行表の元に身を投じ、十五歳で得度を行った。その後空海同様山林内に修行の地を求め、比叡山に草庵を結ぶ。この間に最澄が見出したのが、当時まだ日本に受け入れられていなかった天台宗の教えであった。ここにも空海と同じような、最澄の渡唐の素地が見出せる。
その後天皇のために病気平癒の祈祷を行う内供奉に任ぜられ、また延暦二十一年(八〇二)には、高雄山寺で開かれた法花経の説法に出講して、天台主要典籍の講義を行うなどした。その結果時の天皇、桓武天皇の庇護を受け、天皇をして天台教学の興隆を諮らせしめ、ひいては最澄の、渡唐の道を開くこととなった。
さて、同じ船団で唐へ向かった二人であったが、空海の方は乗船した第一船が進路を大きくはずれ予定地のはるか南に着岸、その後二ヶ月かけて長安へ到着、ここで青龍寺の恵果との出会いが待ち受けていた。この青龍寺において恵果から伝法灌頂を受けられた空海は、恵果の指示どおり、二十年の唐滞在予定をわずか二年で切り上げ、多数の経典と共に帰国される。
一方最澄は、比較的予定地の近くに到着後、長安には向かわずすぐさま天台山へ向かう。それは最澄の目的が、天台教学の修学であったためである。ここで天台教学を授けられた最澄は、こちらは更に短く、わずか八ヶ月で所期の目的を達成したと判断、そのまま長安に寄ることもなく日本へと帰国する。
このような唐における二人の異なった行動が、その後の二人の交友に大きく影響することになる。
 
二、空海の『請来目録』
大同元年(八〇六)年に帰国した空海は、二十年という留学期間をわずか二年で切り上げて無断で帰国した重罪の所為か、または桓武天皇の崩御に伴う、朝廷内の一連の出来事の所為か、主たる原因は定かではないが、入京の許可を得られないため、四年近くの長きに渡って大宰府は観世音寺に足止めされることになった。
その間大同元年(八〇六)十月に空海は、唐から持ち帰ったおびただしい数の品々の目録を作成されている。これが『請来目録』である。空海はこの目録に上表文を添えて、朝廷へ提出されたが、それでも入京の許可は得られなかった。一方先に帰国していた最澄は、この目録に目を通す機会を得て、正当な中国密教経典の並ぶその内容に驚くことになる。そして最澄は、桓武天皇から密教の僧を養成するように命ぜられていたこともあって、いち早く空海と、空海が請来された品々を必要としたのである[ii]
 
三、二人の出会い
 大同四年(八〇九)二月三日、空海は、最澄に対して名書(名刺)を捧呈されたと伝えられている(『延暦寺護国縁起』巻下、『天台霞標』二編巻之一)[iii]。しかしながら、この名書は、後世天台宗の僧侶の手になる偽文書と考えられるので[iv]、実際に二人の最初の交友の証を示す、現存する最も古いものは、大同四年(八〇九)八月二四日に、最澄が空海に送った、十二部五十五巻に及ぶ密教経典借覧依頼の書簡である[v]。当時空海は、社会不安の増大を憂慮されており、嵯峨天皇即位の知らせを聞かれると、入京許可を待たずに、縁の深い和泉の国に移動、ここで大同四年(八〇九)七月に入京の許可を得て、高雄山寺に入られたばかりであった。すなわち最澄は空海入京の知らせをきくやいなや、すぐに書簡を送ったことになる。この頃の最澄は桓武天皇という強力な擁護者を失ったところへ、法相宗の圧力などもあって天台宗の得度者が次々と比叡山を去り、そこへ空海が入り込んでくる[vi]、という非常事態に直面しており、最澄としてはそれだけに一刻も早く密教関係の経典が必要だったわけである。
 この書簡は、それが送られる以前に空海とのなんらかのやりとりがあったのでは、と推測されるほど[vii]、簡単な内容であったが、空海は快くそれらの経典類を貸し出された。これを嚆矢として、最澄は次々と借用を依頼、空海はそれに応えられる、というお互い対面のない、経典類の貸し出しという形でしばらく交流が続く。
 
 四、行き違った灌頂
 その後空海は、弘仁元年(八一〇)に東大寺の別当を任ぜられ、次いで翌年には旧都・長岡京の乙訓寺の別当も任ぜられるなど、朝廷の信頼を厚くされていった。その乙訓寺に最澄が空海を訪ねたのが、弘仁三年(八一二)十月のことであった。ここに二人は、初めて対面することになる。この面会でのポイントは、灌頂に関して空海が正式に最澄からの申し出を受諾し、実際に灌頂伝授へとつながったことである。その結果、最澄への灌頂が、十一月十四日に金剛界の灌頂が、次いで十二月十五日に胎蔵界の灌頂がおこなわれた。ところがこの灌頂が、二人の間に溝をもたらす要因となる。
 というのは、この二回に渡って行われた灌頂は、仏さまと縁を結ぶための結縁灌頂であったからである。この灌頂は、入門を志す者であれば誰でも受けることが出来る。ゆえに最澄が希望していた僧侶向けの伝法灌頂とは大きな隔たりがあった。
 空海がわずか半年で伝法灌頂を受けたこと知った最澄は、自分もすぐに伝法灌頂を受けられるものと考えていたが、空海から「少なくとも三年は勉強を」と伝えられ、それでは空海のもとに留まることは出来ず、代わりに弟子を遣わして、比叡山へと帰ってしまう。
 この頃から二人の間がおかしくなり始めた。最澄が借りた経典類をなかなか返却せず、空海が返還督促状をしばしばしたためているのもその現れである。そうして二人の間を決定的に裂く要因となった出来事が二件起こった。一つは最澄の片腕であった弟子の泰範が空海の下に弟子入りしたこと、もう一つは、最澄が『理趣経』の注釈本である『理趣釈経』の借用を申し出て、それを空海が断ったことである。
 
 五、泰範について
 泰範は空海の十大弟子の一人であるが、もとは最澄が後継者と決めていたほど最澄にとって重要な弟子であった。一時はその信頼の余り妬みをかって比叡山から遠ざかる時期もあったが、その後最澄の勧めで、すなわち比叡山へ帰ってしまった最澄のいわば身代わりとして泰範は高雄寺へ上り、空海から灌頂を受ける。そして弘仁四年(八一三年)三月一六日に行われた灌頂の後、泰範はこのまま空海のもとに留まることを宣言する。驚いた最澄は、その後何度も比叡山へ戻るよう促すものの泰範はそれに従わず、ついに空海の弟子となってしまった。このことは空海、最澄両者の間に出来始めていた溝を、より大きくする結果となってしまった。
 
 六、『理趣釈経』の借用
 『理趣経』は、非常に誤解を招きやすい経典であり、修行なくして読むには危険な書物であった。そこで空海はこの経典の特殊性から、不空訳の最も重要な注釈書である『理趣釈経』を秘典としていた。この『理趣釈経』の借用を最澄は申し入れたのである。これに対して泰範の一件もあって、空海は長い断りの書簡を出された。この結果2人は袂を分かつことになってしまう。このことは両者亡き後、東密と台密の相克を生ぜしめることになる。
 
 まとめ(二人の思想観の相違)
 さて、最澄は、天台法門と真言法門との間には優劣を認めない円密一致の立場をとっていた[viii]。そこで密教といえども、経典類を熟読すれば、自ずと理解できると考えていた。一方の空海は、仏法に顕密二教の別ありとされ、真言ひとりを密教とし、天台法門は顕教の一つとみなされていた[ix]。そして密教は定められた修行を行い面受によってしか修得できない、と考えられていた。借用のごたごたや、灌頂の誤解など、決別の直接の原因に対して、その根底には二人の間の明確な思想的相違が存在したのである。とはいうものの、宗教をもって衆生を救いたいという、根本的な思いは両者とも同じであった。それだけに両者が決別しなければ、わが国のその後の歴史地図も相当変わったものになったに違いない。


[i]大久保良峻編、「山家の大師 最澄」、吉川弘文館、二00四年、四七~四八頁
[ii] 武内孝善著、「空海素描」、高野山大学通信教育室、二00四年、二〇九頁
[iii] 佐伯有清著、「最澄と空海―交友の奇跡―」、吉川弘文館、一九九八年、二五頁
[iv] 佐伯有清著、前掲書、二五頁
[v] 佐伯有清著、前掲書、二六頁
[vi] 佐伯有清著、前掲書、四八~四九頁
[vii] 武内孝善著、前掲書、二一二頁
[viii] 武内孝善著、前掲書、二三七頁
[ix] 武内孝善著、前掲書、二三八頁
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