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へんろ道に咲く花1輪・・・そんな花になりたい・・・
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はじめに
 空海は、弘仁七年(八一六)六月十九日、嵯峨天皇に対して、高野山の地を賜りたいと請願された。天皇の許可は翌月に下り、ここに高野山の歴史が始まった。以後、高野山は幾多の栄枯盛衰を経て、現在では、世界的な宗教都市としての地位を揺ぎ無いものとしている。ここでは設題の留意点に従い、高野山の開創について論じてみたい。
 
一、開創の目的と高野山が選ばれた理由
 まず、空海はどのような理由で高野山を開創されたのであろうか。唐より帰国後の空海は、嵯峨天皇の庇護もあって、東大寺や乙訓寺の別当を任ぜられるなどその地位を高められていた。そして京の都の奥にある高雄山寺を住房として、済世利人の願いのもと、全国各地に布教の旅を続けられていた。その一方で、空海には、密教の基本である修行と修学の場を作りたい、そこでいつの世までも人を救い、利を施すための人材養成を行いたい、という願望がおありだった。そのような聖地として住房のある京の都は不適当であった。どこか都の栄華や喧騒を離れた場所でなければ、弟子達の教育は行いがたかった。密教の道場としては、都から離れた深山が相応しかった。そのような道場を築くべく理想の地を求めて遍歴する空海には、求聞持法の修行時代に訪れた紀伊の国の高野山があった。これらのことは弘仁七年(八一六)六月十九日に空海が嵯峨天皇に提出された上表文から明らかである。そこでは、
 
 金刹銀台は櫛のごとく朝野に比び、義を談ずる竜像は寺毎に林をなす。法の興隆は是において足んぬ。但だ恨むらくは高山深嶺にし四禅の客乏しく、幽藪窮巌に入定の賓稀なり。実に是れ禅教未だ伝わらず、住処相応せずが致すところなり。今、禅教の説に准ずるに、深山の平地尤も修禅に宜し。
 空海、少年の日、好んで山水を渉覧せしに、吉野より南に行くこと一日、更に西に向かって去ること両日程にして、平原の幽地あり。名付けて高野と曰う。計るに紀伊国伊都郡の南に当たれり。四面高嶺にして、人蹤、蹊道絶えたり。今思わく、上は国家の奉為に、下は諸々の修行者の為に、荒藪をかり夷げて、聊か修禅の一院を建立せん。
 
とあり、「仏法の真の興隆は単に教義を論ずるだけでなく、自ら深山
幽谷にあって瑜伽の実践による真理の体得こそ肝要である。いま経
軌(筆者注:経典と儀式法規)によって見るに、紀伊伊都郡の平原
の幽地、高野山こそ、もっとも修禅にかなった地である」[i]と、
言われたのである。こうして、密教の道場として今日まで続く高野
山の歴史が始まることになった。
 
二、高野山開創にまつわる伝承の検証
 高野山で最初に拓かれたのは壇上伽藍界隈であり、ここには丹生津姫命と狩場明神が祀られている[ii]。このことは、この両明神が、高野山の開創に深く関わっていることを示している。それではこの両明神は、どのように関わっていたのであろうか。
 『今昔物語集』によれば、弘仁七年(八一六)六月ごろ、適地を求めて遍歴中の空海は、大和国宇智郡で、南山(高野山)の犬飼と名乗る猟師から高野のことを聞き、その猟師の二匹の犬に導かれて高野山へと向かわれる。そしてこの猟師は、高野山の地主神、狩場明神だったという。
 次に空海は、紀伊国との境で出会った一人の山人に伴われ、高野の地に到着されたとき、その山人から高野の領地を譲り受けられた。この山人は高野の地主山王(丹生明神)の化身であったという。そしてそこに林立する檜の枝に、唐は明州の浜から、「伽藍に建立するのにふさわしいところがあれば、教えたまえ」と祈念して投げた三鈷が突き刺さっていたという[iii]
 それはさておき『今昔物語集』とは、インド、中国、そしてわが国の仏教説話や民俗説話を集めた説話文学である。説話文学であるからしてそれは、読み手の興味を惹くために、意外性や異常性を有しているものの、その話の内容は、事実または事実と信じられてきたことを、口承によって伝えられてきた[iv]、という性格を持つ。すなわち、面白さを引き出すために文学的に脚色されているところがあるとはいえ、その話の出所は伝説ではなく、事実もしくは事実と信じられてきたものなのである。そうすると、『今昔物語集』に取り上げられているこの高野山開創の説話の出所もそうでなくてはならない。するとこの話のその出自はどこにあるのか。ここで俎上に上ってくるのは、狩場明神と丹生明神の存在である。この存在に関しては、夫婦である、親子であるなど、さまざまな見解があるが、ここでは事実に極めて近いと思われる過去の見解を上げて論じてみたい。
 先ず狩場明神のほうであるが、この話を、奥州山寺の開創と深く関わりをもつ磐司磐三郎の説話と同様のタイプだ[v]、とする説を取り上げたい。ちなみに磐司磐三郎の説話とは次のような話である。
時は奇しくも高野山開創の時と相前後する頃、比叡山延暦寺の僧慈覚大師円仁は、諸国行脚の途中山深い奥羽の地に布教をしようと二口峠(磐司岩)を旅していた。大師は奇岩がそそり立つ壮観な景色(現山寺)に心を引かれるとともに、ここに山寺を築こうと決意した。ここで土地の主である磐司磐三郎と面会、布教活動の許しと土地の借用を願った。磐司磐三郎は大師の功徳と説法に感動、慈覚大師の開山に全力を尽くして助力したため、のちに地主権現として祀られた、という。
つまり、狩場明神その人は、磐司磐三郎が山寺界隈の狩人の首領であったと同様に、高野山に狩猟権と祭司権を持つ山人で、実際に高野山を支配する司祭者であった。そこに、高野山の地を密教の道場とされたい空海が訪れて、この山人との間に、高野山の利権に関わるなんらかの交渉や契約が行われた事実が、磐司磐三郎のケースと同じように、その後狩場明神として祀られ、今日のような高野山開創伝説が生まれた、と考えられる。
 ここでこれまでの考察を整理すると、
     空海が密教の道場に相応しい土地を探して高野山近辺を遍歴していたとき、高野山の狩猟権と祭司権を持つ山人がいて、高野山を宗教的に支配していた。
     空海がこの山人となんらかの形で対面し、高野山に密教の道場を建立すること希望を打ち明けあけたところ、その希望に山人が応じたこと。
     このような経緯からこの山人は高野山開創になくてはならなかった人物であり、後に神格化され祀られた。
この三点が出自ではないかと考えられる。こうした事実が、わが国の仏教説話の一つとして『今昔物語集』に収められるにあたって、読者を魅了するために脚色されて、現在伝わる形になったものと推測される。つまり、高野山の領地を空海に譲ったのは、当時高野山を宗教的に支配していた山人にほかなるまい。
そうなると、丹生明神の方はどうであったのか。これを解く鍵として高野山開創にあたっての空海と紀伊国造家、紀伊国造家と丹生氏の関係がある[vi]。そしてその根拠となるのが、高野山下賜の勅許を得られた空海が、紀伊国在住の有力者に宛てて、高野山開創の助成を依頼した一通の書状である。以降テキストに依拠しつつ考えてみたい。
 この書状には、高野山開創を考察する上で重要な、次のようなポイントがある。
     空海の先祖である太遣馬宿禰は、この書状の宛て人の祖である大名草彦のわかれであること。
     空海が、密教の道場を建立したく、その土地として、高野山が最適、と打ち明けられていること。
     そこで嵯峨天皇に高野山の下賜をお願いしたところ、許可がでたこと。
     高野山の開創にあたっては、この宛て人から援助を受けたいこと。
以上の点から導き出されるもっとも重要な事項は、この宛て人が誰かということになる。この宛て人に関しては、過去いろんな見解がなされてきたが、最も有力なのは、それぞれ大名草日彦を先祖にいただく紀伊国造家の紀直氏か、あるいはそれと祖を一にする丹生祝家の丹生氏である、する見解である[vii]
この点について武内孝善先生は、この宛て人を丹生氏とする方がより現実味を帯びる、述べられている[viii]
その理由として武内先生は、地理的な面を挙げられている。すなわち紀伊の国に一大勢力を誇っていた紀直氏の本拠から高野山の地理的な距離を考慮すると、それは助力を願い申し出るには遠すぎる。それに比して丹生氏は高野山麓の天野に鎮座する丹生津比売命を祭祀していたため、実際に当時未開の高野山へ伽藍を建てるという、一連の困難を考えた場合、高野山から近い、丹生氏に助力を申し出られた方が現実的であろう、と武内先生は述べられている[ix]。また山陰加春夫先生は、『今昔物語集』の高野山開創説話は、丹生津比売神社の、十二世紀当時の中核的な信仰圏を暗示していると考えられる、と述べられている[x]。すなわち高野山を含む紀伊国伊都郡の南の山間部は丹生氏の宗教的支配の及ぶ地域であったわけである。これらの先行研究から、宛て人は極めて丹生氏である可能性が高い。
しかしながら現在のところそれを裏付ける決定的な資料に欠け、いずれであるかを断定するには、きわめて示唆にとむ。
ただ過去の様々な研究から推し量ると、高野山の伽藍建立にあたっては、空海に有力な援助者が存在し、その援助があって伽藍が建立されたという事実に間違いはなく、そのときの助力貢献によって後に丹生明神という名称を与えられたと考えられる。
 
まとめ
 昨年宗派などを超え近畿二府四の社寺が結束して神仏霊場会を設立した。この設立には、「明治政府の国策によって壊された神仏共存の宗教体制を見直し、民衆レベルでの日本人の信仰観を復興させよう」という狙いがあるが[xi]、その奥底には「自然による救い」という古来我々の祖先たちが抱いていた信仰心が存在するのではないか。空海はそうしたことをよくご存知であって、雄大な自然を有する高野山に密教の道場を築くと同時に、自然を神として畏敬の念を抱く当時の民間信仰をも大切にされたのであろう。


[i]高木訷元著、「空海 生涯とその周辺」、吉川弘文館、一九九七年、二〇一頁
[ii] 松長有慶、高木訷元、和多秀乘、田村隆照著、「高野山 その歴史と文化」、法蔵館、一九九八年、一六二頁
[iii] 武内孝善著、「空海素描」、高野山大学通信教育室、二〇〇四年、二四七~二四九頁
[iv] 下西忠著、「密教と説話文学」、高野山大学通信教育室、二〇〇八年、一頁
[v]松長有慶、高木訷元、和多秀乘、田村隆照著、前掲著、一六四~一六五」頁
[vi] 高木訷元著、前掲書、二〇四頁
[vii] 高木訷元著、前掲書、二〇六頁 
[viii] 武内孝善著、「弘法大師伝承と史実 絵伝を読み解く」、朱鷺書房、二〇〇八年、一七七~一七八」頁
[ix] 武内孝善著、前掲書、一七七~一七八頁
[x] 高野山大学選書刊行会編、「高野山大学選書第一巻 高野山と密教文化」、小学館スクエア、二〇〇六年、二七頁
[xi]「日本人本来の信仰は」 朝日新聞二〇〇九年一月三〇日付記事
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