へんろ道に咲く花1輪・・・そんな花になりたい・・・
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学校
はじめに(仏教説話の条件)
先日ある新聞に下のような興味深い記事が掲載されていた。
スズメバチ逆襲し寺全焼=副住職、巣を焼こうと 新潟(時事通信社九月三日)
三日午前九時半ごろ、新潟県小千谷市岩沢の寺「和光院」から出火、木造約一三〇平方メートルを全焼した。県警小千谷署は、佐藤篤副住職(四一)がスズメバチの巣を焼き払おうとし、火が燃え移ったのが原因とみて調べている。佐藤副住職は顔などをやけどしたが、命に別条はないという。
調べによると、佐藤副住職は竹の棒の先に火を付け、寺の食堂の押し入れ内にあったスズメバチの巣を焼き払おうとした。しかし、スズメバチの逆襲に遭い、火が付いたままの棒をその場に投げ捨てて避難。火が寺に燃え移ったという。
三日午前九時半ごろ、新潟県小千谷市岩沢の寺「和光院」から出火、木造約一三〇平方メートルを全焼した。県警小千谷署は、佐藤篤副住職(四一)がスズメバチの巣を焼き払おうとし、火が燃え移ったのが原因とみて調べている。佐藤副住職は顔などをやけどしたが、命に別条はないという。
調べによると、佐藤副住職は竹の棒の先に火を付け、寺の食堂の押し入れ内にあったスズメバチの巣を焼き払おうとした。しかし、スズメバチの逆襲に遭い、火が付いたままの棒をその場に投げ捨てて避難。火が寺に燃え移ったという。
要約すると、新潟県小千谷市にある和光院という寺の副住職が、寺の食堂の押し入れ内にあったスズメバチの巣を、竹の棒の先に火を付けて焼き払おうとしたところ、スズメバチの逆襲に遭遇。火が付いたままの棒をその場に投げ捨てて避難したところ、その火が寺に燃え移り、その結果寺は全焼した、という話である。
この寺の関係者にとっては誠に気の毒な話ではあるが、これはまさに平成版仏教説話に出来そうな話ではないか。このニュース記事は、ソーシャルネットワーキングサービス(SNS)の大手、ミクシーでも取り上げられ、記事を読んだ多くの読者は、寺や寺関係者に同情しつつも、「僧侶が生き物を殺しては駄目だ」、とか、「僧侶なのに追い払い方がひどい」、「蜂の復讐がみごとだ」などそれぞれ興味深げにコメントを行っていた。つまりこの記事は、
①出来事内容の意外性、
②記事を読む者の興味を惹く点、
③僧侶の人間的な行為が描かれている点、
など、仏教説話として成立するためのとしての萌芽的条件があり、優れた書き手の手にかかれば、文学的価値を持つ仏教説話に転身できそうである。逆にいえば、現存する今昔物語や方丈記、徒然草などの作品に記された仏教説話も、元はといえばこのような類の事件が口承され、それが鴨長明や兼好などの優れた文筆家の手にかかることにより、文学的価値を帯びた説話へ姿を変えたのであろう。
実際過去の説話に、この話の兄弟のような話がいくつか存在する。たとえば蜂の復讐と僧侶に関しては、今昔物語中に、「蜘蛛が蜂の復讐を逃れる話」が存在する。また、生き物を追い払おうとする類には、徒然草第十段に、「家居のつきづきしく」という題をともなって、後徳大寺左大臣の神殿に鳶をとまらせまいとして縄を張ったのを見て西行が興ざめする一方、綾小路宮の居る小坂殿の棟に、池にいる蛙が烏に捕われるの気の毒に思った宮様が縄をひかれた云々、という話が存在する。
このように、僧侶にまつわる意外性を帯びた出来事を描写し、見事な文学作品として今日まで伝えられている作品の一つが徒然草である。以下、留意点に従い、二三六段「丹波に出雲というふ所あり」の説話を鑑賞してみたい。
一.徒然草の概略
鑑賞に入る前に、鑑賞の事前準備として、先ず徒然草という作品に関して概略を簡単に列挙しておきたい。
・作者は兼好(一二八三年(弘安六年)頃~一三五〇年(観応元年)頃)。本姓は卜部。京都吉田神社の神官の家系の生まれ。後宇多上皇の時代に北面の武士として左兵衛左に至るも、三十歳前後で出家。二条派の歌人としては四天王の一人に数えられ、家集「兼好法師集」。
・作品の成立は、大部分が元徳二年(一三三〇)末から元弘元年(一三三一)の秋にかけての一年間に成ったとする説が一般的だが、長期にわたり逐次成立したという説もあり。
・内容・構成であるが、序の他二四三段。各段はそれぞれ独立したテーマをもって書かれており、その内容は、説話・処世訓・自然観照文など多岐にわたるが、その世界を貫くのは、個人の体験や思考に裏打ちされた作者独自の無常観。
二.鑑賞
この説話を一言でまとめると、独善的な一人の僧侶による失敗談であるが、その失敗談が、
① 起承転結がはっきりしていること。
② 最後に待ち受けるどんでんがえし。
の二点によって、非常に読み手の興趣を誘う作品にしあがっている。よって以下この二点に着目しながら鑑賞してみたい。
ア 起の部分
原文では、「丹波に~信おこしたり」までが該当する。簡約すると下のようになる。
「丹波の国に出雲大社を勧請して作られた社殿があり、そこの支配者が聖海上人をはじめとして多数の人々誘って、一同を連れていくと、一同は皆深い信心を起こした。」
大社とは杵築大社、すなわち現在の出雲大社をさす。また、この社殿は現在の京都府亀岡市にある丹波国一之宮出雲大神宮のことであり、すなわち現在の出雲大社をうつしたものである(但し、出雲大神宮の案内によると、むしろ出雲大神宮の方から先方へ分霊した、とある[i]。)。丹波国の一之宮として、「当時は広大な所領を抱えるなど、全国的に見ても社勢大にして、上下の尊崇極めて篤い神社」であり1、現在も残る。「めでたく造れり」、すなわち立派に造営してある、という一文に、その社の大きさが創造できる。この「めでたく造れり」の一文が、後に述べるがポイントになる。
イ 承の部分
「御前なる~など言ふに」が該当する。簡約すると下のようになる。
「上人が社殿の前にある獅子・狛犬が、背中合わせになって後ろ向きに立っているのにひどく感動し、一同に、「この素晴らしさに気づかないのはいけないことだ」言ったところ、一同も感動して「都への土産話にしよう。」などと言ったため、」
この部分で聖海上人の極めて権威に弱い様が描かれる。この権威主義こそ、遁世する兼好にとっては格好の批判の対象であることは言うまでもない。すなわち、立派な社にすっかり感服した上人は、その威力に洗脳されてしまい、本来の習わしであれば、社殿の前に、向かって左に獅子が、右に狛犬が置かれているべきところ、ここの社では、獅子・狛犬が、背中合わせになって後ろ向きに立っていることに対しても、一塵の疑問ももたず、感服して、「なんと素晴らしい。この獅子の立ち方の珍しさよ。深いいわれがあるのだろう」と涙してしまう。この部分に上人の権威に対する弱さと、その極めて純粋な好人物ぶりが描かれている。また上人はその感動を、皆に伝えようと、しかも、したりがおで、「なんと、みなさん、こんな素晴らしいことにお気づきにならないのはあんまりです。」と人々に共感を促す。「むげなり。」は、よくないこと、すなわちここでは、獅子と狛犬の向きに気づかないことのはなはだしさをしめしている。上人の強い口調により、そこで一同も何の疑いも抱かず、「ほんとうによそとは違っています。都への土産話にしよう」とまで言い放ち、ますます上人をその気にさせてしまう。
ウ 転の部分
転の部分は、「上人なほ~去にければ」が該当する。簡約すると下のようになる。
「上人はさらにその由来を知りたくなり、年配の分別ありげな神官にそれを問うたところ、神官は「そのことですが、これは子供のいたづらでじつにけしからんことでして。」と言って獅子・狛犬の向きを据えなおしてまったため、」
承の最後の部分で人々に共感を促し、ますますそのありがたさを強く意識した上人は、いわれを知りたくなり、年配の、そしてこの社のことを詳しく知っていそうな神官に問い掛ける。その問いかけに対する神官のまず答え方がの出だしが面白い。「そのことに候」すなわち、「そのことでございます」という前置きがあって本題にはいる。この前置きによって、まだ何も知らない上人はもとより、われわれ読み手も、次に続くであろう神官の答えに一層期待感を高めてしまう。
しかし神官の口から出た答えは、意外にも「こどものいたずらでとんでもないことでして」と、期待はずれどころか今まで上人や読者が抱いてきた感を一蹴してしまうものであった。更に神官は「獅子・狛犬の向きを正しく据えなおしさっさと立ち去った」ことにより、感情的な上人と冷静な神官の対比ぶりが伝わり面白い。
エ 結の部分
この作品の首脳でもある結の部分は「上人の~なりにけり」が該当し、訳すると下のようになる。
「上人の感涙は無駄になってしまった。」
涙するほどまでに獅子と狛犬の向きをありがたがり、同行者にまで同情を促した上人の、一連の行動のすべては、無粋な神官の言動によって簡単に否定されてしまった。上人がありがたがり涙したいわくありげな獅子と狛犬の変わった置かれ方は、単なる子供のいたずらが原因であったからである。そして神官はいとも簡単に向きを普通の置き方に戻してしまった。
当の上人のばつの悪さや、その場の空気などは具体的には書かれていないが、読み手にはこの一文により、立場をなくした上人の様子やその場の雰囲気が手にとるように想像できる。むしろ却って簡単に切り上げているために、小気味がよい。しかしこの簡単な一文には次で述べるように説話上重要な意味を含んでいる。
まとめ
兼好は、好人物である聖海上人の失敗談を、起承転結ではっきりと構成された文章により、また最後の効果的などんでん返しによって読む者に確実におもしさを伝えた。しかし兼好の伝えたかったことは面白さよりむしろ、この作品のテーマ、すなわち作品最後の「上人の感涙いたづらになりにけりに」こめられた、権威主義に対する痛烈な批判であろう。すなわち兼好は、聖海上人という権威主義側の僧の振る舞いをおもしろおかしく語ることで、権威主義を皮肉っているのである。よってこの説話は、徒然草全体に貫かれる兼好の合理的精神が味わえる好説話といえよう。
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