へんろ道に咲く花1輪・・・そんな花になりたい・・・
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1. はじめに
現代人は、科学技術の飛躍的な発展がもたらした恩恵に浴し、物質面では非常に充足することとなった。もちろん医療面においても技術は格段に進歩し、平均寿命の上昇や、数々の疾病の治療や予防に貢献している。その一方で、個を重視する都市的生活様式の浸透に伴い、従来から社会生活に対する規範を提供してきた共同体が崩壊し、それどころか社会の最小単位である家族の存在までもが危ぶまれる状態にあるのも現代社会の現状である。
このような状況下、従来、技術や物質面だけを重視してきた現代の医療に対して、精神面を重視するスピリチュアルケアが注目を浴びるようになってきた。以下その宗教的歴史を振り返り、今後の展望を考察したい。
2. 釈尊の教えとビハ―ラに見るスピリチュアルケア
釈尊の時代において、病人をケアし看護することは大変重要視され、病人のために施設も作られた。また釈尊は、遊行しながら修行者相互の看病を促し、自らも看病した上、他人本位の看病や、看病によって生じる功徳を「阿含教」において説いた。これは、病人を積極的にケアすることが仏教徒の務めであるとともに、病苦からの解脱に至る道筋を教えているのである。つまり僧にとって、病人とその苦しみを分かち合う関係性、すなわちスピリチュアルな場面を病人と共有することこそ、重要な自利利他の修行であるとする。このような教えが元となって、仏教では病人看護とその死を看取ることが僧の重要な修行の一部となり、寺院内には看病のためのビハーラが設けられた。
この施設において行われたのは、単に医療看護だけではなく、スピリチュアルケアも実施された。またケアという行為にとどまらず仏の教えの実践も同時になされた。
このように当時のインドにおいては仏教的観点に立ったスピリチュアルケアの実践が行われていたのである。
3. 飛鳥・奈良時代の日本に見るスピリチュアルケア
インドに始まった仏教はその後中国や朝鮮半島を経て日本に伝えられた。無論経典と同様スピリチュアルケアの考え方も移入され、先ずは聖徳太子により仏教的ケアの実践が推進された。
奈良時代に入ると養老2年、興福寺内に「施薬院、悲田院」が、その後、法隆寺においても「療病院、敬田院」などが建てられ、病人が看護された。
このように、日本においては1300年前より仏教の教えに基づくケアが行われ、後世へと受け継がれていくが、江戸幕府による寺院活動の制約、明治維新による西欧文化の積極的移入と廃仏き釈運動、戦後、法律によって社会福祉活動は国が行う方針になったことなどにより、僧侶と医療の現場は別離していくことになる。
4. スピリチュアルケアの今後と展望
お大師様はその撰述書である『即身成仏義』において、「六大無礙にして常に瑜伽なり」と述べられ、地・水・火・空・風からなる五大とそれを認識する識大は、ばらばらに存在するのではなく、互いに入り混じり溶け合って存在する、と説明された。すなわち、物質と精神は、分離することなく一体として存在しているのである。このことは、患者と看病人の間にも言えるのではないか。すなわち患者と看病人は決して離れることのない関係で結ばれていなくてはならず、他人でありながら他人であってはならないのである。
共同体や家族といった昔からの社会集団がその機能を失いつつある現代社会において、その機能を補完しまた、修復していくことが急務であるが、国や行政による形だけの援助では限界がある。そこで、精神面に関して深い造詣を持つ仏教関係者によるケアの実践はますます重要視されるであると同時に、一般人へのその考え方の普及も急がれるのではなかろうか。
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