へんろ道に咲く花1輪・・・そんな花になりたい・・・
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明日から教室アンドお稽古が再び連日体制に戻るので、今日中に次のレポートをできるとこまでやろうと大学の図書館にこもりました。
途中であまりの寒さに壁の温度計を見たらなんと18度!はぁ?なにこれ!夏期休暇中で学生は殆んどおらんのにこんなに冷やしてどうする!一瞬本って冷やさないといけなかったかと、考えてしまいました。そしてその温度計の上には「28度に設定しましょう」のステッカーが・・・むなしい。これじゃほんとに冷凍缶詰にされてしまう・・・
温暖化の防止研究にに率先して取り組むべき大学の図書館ががこんなんでどうするよ!なぁ、関西大学クン・・・
途中であまりの寒さに壁の温度計を見たらなんと18度!はぁ?なにこれ!夏期休暇中で学生は殆んどおらんのにこんなに冷やしてどうする!一瞬本って冷やさないといけなかったかと、考えてしまいました。そしてその温度計の上には「28度に設定しましょう」のステッカーが・・・むなしい。これじゃほんとに冷凍缶詰にされてしまう・・・
温暖化の防止研究にに率先して取り組むべき大学の図書館ががこんなんでどうするよ!なぁ、関西大学クン・・・
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母校の図書館半日缶詰で遍路実習のレポートを仕上げました。これで計画書もできたし、いよいよ今年のお遍路が現実味を帯びてきました。
今からとても楽しみ
合間に久々に出来た時は東洋一と呼ばれた図書館の開架閲覧室を眺めて回りましたが、在学中もっと本を読んでおけばよかったと反省しきりです・・・・。
今からとても楽しみ
合間に久々に出来た時は東洋一と呼ばれた図書館の開架閲覧室を眺めて回りましたが、在学中もっと本を読んでおけばよかったと反省しきりです・・・・。
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夏季集中講義の結果が返ってきました。2科目とも合格になってました
これにより卒業に必要な30単位の内、半分を取り終えたことになり、ほっと一息です。
といってもこれらは全て選択科目で、必修科目の密教概論とか、密教史とかはその目途すら立っていません。無論修論もしかり・・・。
とりあえず明日は図書館に缶詰で、遍路実習Ⅱのレポートを一気に仕上げます。これ書かないとお遍路に行けないの・・・。
月食は教室から帰って辛うじて5分の1ほど欠けてるのを見ました。大阪は今日の、しかも月食の時に限って雲が出ていて、近くの公園に集まって観察していた人たちも拍子抜けの様でした。ほんとなら同時に星食というのも見れたそうですね。
これにより卒業に必要な30単位の内、半分を取り終えたことになり、ほっと一息です。
といってもこれらは全て選択科目で、必修科目の密教概論とか、密教史とかはその目途すら立っていません。無論修論もしかり・・・。
とりあえず明日は図書館に缶詰で、遍路実習Ⅱのレポートを一気に仕上げます。これ書かないとお遍路に行けないの・・・。
月食は教室から帰って辛うじて5分の1ほど欠けてるのを見ました。大阪は今日の、しかも月食の時に限って雲が出ていて、近くの公園に集まって観察していた人たちも拍子抜けの様でした。ほんとなら同時に星食というのも見れたそうですね。
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1. はじめに
現代人は、科学技術の飛躍的な発展がもたらした恩恵に浴し、物質面では非常に充足することとなった。もちろん医療面においても技術は格段に進歩し、平均寿命の上昇や、数々の疾病の治療や予防に貢献している。その一方で、個を重視する都市的生活様式の浸透に伴い、従来から社会生活に対する規範を提供してきた共同体が崩壊し、それどころか社会の最小単位である家族の存在までもが危ぶまれる状態にあるのも現代社会の現状である。
このような状況下、従来、技術や物質面だけを重視してきた現代の医療に対して、精神面を重視するスピリチュアルケアが注目を浴びるようになってきた。以下その宗教的歴史を振り返り、今後の展望を考察したい。
2. 釈尊の教えとビハ―ラに見るスピリチュアルケア
釈尊の時代において、病人をケアし看護することは大変重要視され、病人のために施設も作られた。また釈尊は、遊行しながら修行者相互の看病を促し、自らも看病した上、他人本位の看病や、看病によって生じる功徳を「阿含教」において説いた。これは、病人を積極的にケアすることが仏教徒の務めであるとともに、病苦からの解脱に至る道筋を教えているのである。つまり僧にとって、病人とその苦しみを分かち合う関係性、すなわちスピリチュアルな場面を病人と共有することこそ、重要な自利利他の修行であるとする。このような教えが元となって、仏教では病人看護とその死を看取ることが僧の重要な修行の一部となり、寺院内には看病のためのビハーラが設けられた。
この施設において行われたのは、単に医療看護だけではなく、スピリチュアルケアも実施された。またケアという行為にとどまらず仏の教えの実践も同時になされた。
このように当時のインドにおいては仏教的観点に立ったスピリチュアルケアの実践が行われていたのである。
3. 飛鳥・奈良時代の日本に見るスピリチュアルケア
インドに始まった仏教はその後中国や朝鮮半島を経て日本に伝えられた。無論経典と同様スピリチュアルケアの考え方も移入され、先ずは聖徳太子により仏教的ケアの実践が推進された。
奈良時代に入ると養老2年、興福寺内に「施薬院、悲田院」が、その後、法隆寺においても「療病院、敬田院」などが建てられ、病人が看護された。
このように、日本においては1300年前より仏教の教えに基づくケアが行われ、後世へと受け継がれていくが、江戸幕府による寺院活動の制約、明治維新による西欧文化の積極的移入と廃仏き釈運動、戦後、法律によって社会福祉活動は国が行う方針になったことなどにより、僧侶と医療の現場は別離していくことになる。
4. スピリチュアルケアの今後と展望
お大師様はその撰述書である『即身成仏義』において、「六大無礙にして常に瑜伽なり」と述べられ、地・水・火・空・風からなる五大とそれを認識する識大は、ばらばらに存在するのではなく、互いに入り混じり溶け合って存在する、と説明された。すなわち、物質と精神は、分離することなく一体として存在しているのである。このことは、患者と看病人の間にも言えるのではないか。すなわち患者と看病人は決して離れることのない関係で結ばれていなくてはならず、他人でありながら他人であってはならないのである。
共同体や家族といった昔からの社会集団がその機能を失いつつある現代社会において、その機能を補完しまた、修復していくことが急務であるが、国や行政による形だけの援助では限界がある。そこで、精神面に関して深い造詣を持つ仏教関係者によるケアの実践はますます重要視されるであると同時に、一般人へのその考え方の普及も急がれるのではなかろうか。
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一. はじめに
私達人間は、人と人との係わり合いを無くして生きてはいけない。このことは空海の時代もそれから千有余年を経た現代も変わりはない。ただ現代社会は、科学技術の発達により、物質的には格段に便利で豊かになってきている反面、人間関係は荒んでいく一方である。このような時代を反映して、行き過ぎた個人主義の考え方への警鐘として、宗教への期待が大きくクローズアップされているのも現代社会の特徴である。すなわち失われた人間の本来性の回帰を求めるが上で、宗教は重要な役割を担っており、この人間の本来性に関してはるか昔、空海はその著述においてそれを明らかにしている。
そこで本小論文では、空海の撰述著である『即身成仏義』(以下『即身義』)中の二頌八句の詩を取り上げて考察し、本設題に迫りたい。
二. ニ頌八句の詩
『即身義』は、空海が弘仁八年から弘仁十年の間に書いたとされ、空海の密教思想の研究上、その根幹をなすと考えられる重要な著作である。すなわち空海は本著作において、以下のような二頌八句の詩を挙げて、この詩の意味を解説する形で、密教の根本教義たる「即身成仏」の思想を詳らかにしようとした。
六大無礙にして常に瑜伽なり
四種曼荼各々離れず
三密加持すれば速疾に顕る
重々帝網なるを即身と名づく
法然に薩般若を具足して
心数心王刹塵に過ぎたり
各々五智無際智を具す
円鏡力の故に実覚智なり
三密加持すれば速疾に顕る
重々帝網なるを即身と名づく
法然に薩般若を具足して
心数心王刹塵に過ぎたり
各々五智無際智を具す
円鏡力の故に実覚智なり
空海は、初めの四句において「即身」の二字を、次の四句において「成仏」の二字を説明し、「即身成仏」の四字そのものの意味には直接触れていない。これは「即身」、つまり存在の意味を理解することそのものが、「成仏」の語義理解へと導くことを示している。
よって空海はここで、あらゆる存在は、①体、すなわち存在そのもの、②相、すなわち存在の姿や形、③用、すなわち存在の持つ働きや作用、という三つの側面から成り立つという、密教の世界観の基本を述べているである。
そこで、事項では、特に最初の二行の句に着目し、以下考察を進めたい。
三.空海による存在の概念に見る人間の本来性
先ず空海は最初の一行で、存在を構成する六つの要素、すなわち、地・水・火・空・風という五大と、それらを認識する識という要素は、「無礙にして常に瑜伽なり」、つまりばらばらに存在するのではなくお互い溶け合って混じり合って存在している、とした。これはつまり、物質と精神は個々別々に存在するのではなく、互いに入り混じって一体となって存在することを示している。
次の一行では、先に述べた存在を存在たらしめる相について空海は述べている。それは、「四種曼荼各々離れず」、すなわち、存在の現われ方を説明するところの四つの曼荼羅は、表現方法こそ異なるものの、それぞれ離れることはない、とする。すなわち、様々な様相を見せる存在の実相も、帰するところ一であり、決して無関係に存在しているのではない、ということである。
この説明を人間に当てはめると、人間その一人一人は、単独で存在しているのではなく、互いに入り混じって存在し、且つ決して離れることのない関係で結ばれて存在しているのである。
四.まとめ
以上見てきたように、空海によって、全ての存在は現われ方こそ違え、根本は一つであり、不離の関係で結ばれていることが明かされた。そうしてこの考え方は、三位一体のキリスト教や慈しみ・憐れみのイスラム教の概念とも相通ずる点を持つ。すなわち、異宗教といえども、その表現法が異なるだけで帰するところは一なのである。よって宗教の力により、現在の個人主義思想に代わる考え方として、「存在=関係」の考え方の浸透が大いに望まれる。