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へんろ道に咲く花1輪・・・そんな花になりたい・・・
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最悪の状態を抜け出す最終手段として、本当にお遍路に出てしまいました。ただ、今までとは異なり、準備していても精彩を欠き、意気が全然上がらないです。

お遍路で症状が快方に向かわなかったら、一体あたしはどうなるんだろう…
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現代人の心と密教について
弘法大師空海の密教思想と現代社会を支配する個人主義思想
1.はじめに
 「袖触れ合うも他生の縁」ということわざがある。袖が触れ合うようなちょっとしたことも、前世からの深い因縁によって起こるものであるということを意味するが、噛み砕いて言えば、道を歩いていて他人と袖が触れるくらいの事でも多少ご縁があるということになろうか。このご縁というのは多少ではなく他生、つまり前世の因縁やご縁がこの世に続いているからであろう。
ところが現代は、他人と袖が触れ合いでもすれば、罵声を浴びる位ならまだましで、下手をすると命まで奪われかねない物騒な世の中である。一方で遍路体験者なら、このことわざが今も生きていることをよく知っている。遍路道を歩けば、たった今出会うまで全く見知らなかった地元の方からお接待を受けたり、遍路同士が身分、出身地の区別なくの挨拶を交わし、宿ではしごく打ち解けて旧知の友であったごとく自然と会話を交わす。彼らは、自分の存在が他者と関わることによって成り立つ、という考を知らず知らずのうちに身に付けているのである。
 ここでは、まず弘法大師空海の密教思想を踏まえた上で、何故このような時代が出現したのか、またこの時代に生きる人々はこれから何に価値を見出し、それに対して密教は何を行うべきかを考察することによって以下設題に答えたい。
2.弘法大師空海の密教思想
『即身成仏義』は、弘法大師空海が弘仁八年から弘仁十年の間に書いたとされ、弘法大師空海の密教思想の研究上、その根幹をなすと考えられる重要な著作である。すなわち弘法大師空海は本著作において、まず二頌八句の詩を挙げて、この詩の意味を解説する形で、密教の根本教義たる「即身成仏」の思想を詳らかにしようとした。本項ではその詩の特に一行目と二行目に着目して以下稿を進めたい。
先ず一行目において弘法大師空海は次のように詠われた。
六大無礙にして常に瑜伽なり
すなわち、存在を構成する六つの要素、地・水・火・空・風という五大と、それらを認識する識という要素は、「無礙にして常に瑜伽なり」、つまりばらばらに存在するのではなくお互い溶け合って混じり合って存在している、とされたのである。このことは、物質と精神は個々別々に存在するのではなく、互いに入り混じって一体となって存在することを示している。
次いで二行目では次のように詠われている。
四種曼荼各々離れず
ここでは先に述べた存在を存在たらしめる相について弘法大師空海は解説されている。それは、存在の現われ方を説明するところの四つの曼荼羅は、表現方法こそ異なるものの、それぞれ離れることはない、とする。すなわち、様々な様相を見せる存在の実相も、帰するところ一であり、決して無関係に存在しているのではない、ということである。
この説明を人間に当てはめると、人間その一人一人は、単独で存在しているのではなく、互いに入り混じって存在し、且つ決して離れることのない関係で結ばれて存在しているのである、ということになろうか。
3.現代社会を支配する個人主義思想
現代は科学技術が著しく発展した社会である。それがもたらす恩恵により、現代社会は物質的には非常にめぐまれた社会だと言えよう。 
その反面失ってしまったものも多い。長く人々に規範を提供してきた共同体はおろか、社会の最小単位である家族さえもその機能を失わんとしているからである。とりわけ、戦後急速に物質的に豊かになった一方で、それに比例して民主化も進んだ我が国では、今まで抑えられてきた個を強調する教育が行われた結果、古くからその根底を支えてきた倫理観や規範というものが衰退し、極めて個人主義的な考え方が支配する社会の出現となったのである。また科学技術の発達が、この個人主義を助長させる働きを担ったことは言うまでもない。物質面にウエイトが置かれるのに反比例して、精神面が貧困化していったからである。
4.まとめ
現代人は、個人主義思想の蔓延した物質偏重の現代社会において、所属する共同体や家族を失い、どんどん孤立しようとしている。しかしながら、孤立しては、人は生きていけない。ここ2、3年の間にweb上で見知らぬ者同士がコミュニュケーションしあうSNSや、わざわざ他人に個人の日記を晒すブログなどが爆発的な人気を呼んでいるのをみると、結局のところ孤立して寂しい現代人が、他者との関係を求めて苦悩している様子が窺える。自らの存在の為には、すなわち生きる為には、如何に他者との関係が大切であるか、それを失いつつある今、ようやく気づき始めたのである。四国遍路の盛況ぶりもその一側面を現示しているのではないか。
そこで、密教には先述した弘法大師空海の思想に基づく知恵が存在するので、その知恵により、現在の個人主義思想に代わって、「存在=関係」の考え方を浸透させることが大いに望まれる。
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弘法大師空海の思想と実践に見られる独自の視点について
―『即身成仏義』の二頌八句の偈にみる「即身成仏」思想―
1.はじめに
 久米寺において『大日経』と出会い入唐求法の念を抱いた弘法大師空海は、様々な難儀な障壁を克復して唐に渡った。そこで弘法大師空海は、インドから中国へと伝わった密教の正統なニつの流れ、すなわち大日経系と金剛頂経系の両方を継承していた恵果和尚より短期間で両方の密教を授かった後、密教の正統な後継者となり、その後真言密教として一つの思想体系にまとめ上げた。本レポートでは数々の著作中から『即身成仏義』をとりあげて、弘法大師空海の思想と実践について考察することにより設題に答えたい。というのも、中期以降の密教にとってその最大の課題は、いまこの世で生きているうちに悟りをひらくこと、すなわち「即身成仏」であった。その意味で弘法大師空海の書かれた『即身成仏義』は、密教の根本教義と考える「即身成仏」の思想を明らかにされており、非常に重要な著作だからである。
2.二頌八句の偈
  弘法大師空海は「即身成仏」の思想を明らかにするために次のような二頌八句の偈を挙げて、その意味を解説される形をとられた。
六大無礙にして常に瑜伽なり
 四種曼荼各々離れず
 三密加持すれば速疾に顕る
 重々帝網なるを即身と名づく

 法然に薩般若を具足して
 心数心王刹塵に過ぎたり
 各々五智無際智を具す
 円鏡力の故に実覚智なり
弘法大師空海によると、初めの四句は「即身」の二字を、次の四句は「成仏」の二字を嘆じたとされる。そして「即身成仏」そのものの意味は明らかにされず、その後の説明も「即身」方に多くの説明が割かれた。これは、「即身」の意味を理解することこそが「成仏」へつながること意味している可能性が高い[i]
そこで次項以下では「即身」の意味を解き明かしつつ、弘法大師空海の即身成仏の思想を考察してみたい。
3.六大の概念から読み取る「即身」の意味
 弘法大師空海は、「即身」を明らかにする為に、「六大とは五大及び識となり」と説明され、宇宙の体大は六つの本性から成り立つという六大説を創案された。ここで六大とは、物質面の本性である、地・水・日・風・空の五大と、固体や液体を認める力たる識大(精神面)が互いにさまたげあうことなく、互いに入り混じって一体となったあり方だとされる。よって六大を本性とする万物は、同等、同性のものなのであり、全ての存在者がこの六大を本体としてこの世に現れているのである。すなわち、即とは、相応渉入、五大と識大がさまたげあうことなく、互いに結びつき溶け合っている在り方を意味し、身はまさに六大そのものである。
4.即の第二の意味
 真言密教では、宇宙の現象論的説明を四種の曼荼羅の働きによって「四曼相大」と示す。これについて弘法大師空海は、宇宙の現象の根源的なものを示せば、四種の曼荼羅の現われ方、現し方に尽き、それらが表現の根本的なものであるが、どの相も現われ方、現し方が違うだけであり、帰するところは1つとされる。
つまり四種の曼荼羅は、それぞれの現象が真実をあらわし、それぞれ離れることはないとされた。すなわち、即は「不離」をも意味しているのである。
5.すみやかに現われる「悟り」の世界
三行目の句において弘法大師空海は、仏と人間の間でなされる三つの働きを互いに加持(ちからぞえ)することによって、大日如来と一体になり、成仏を可能にする、と述べられた。ここに、即の第三の意味を確認できる。すなわち、即とは修行者の持つこの身そのままなのである。そうして弘法大師空海は、自らの行い(有相)や心のありようも三密であれば、その相(姿)は顕かに仏である、と述べられた。人の行いは、自己本位であるため三業であるが、1.手に大日如来のように印契を結び(印を結ぶ)、2.口に真言を唱え、3.心に本尊を念じると、三業が三密になり、入我我入、すなわち煩悩多い身でありながら即座に仏になる(仏が自分に入り自分が仏に入る。)。まさに即身成仏=生きたまま仏になり、こうなると仏の力が加わり、仏の力を持つから三密加持なのである。
6.まとめ
 四句目において弘法大師空海は、あらゆる存在が恰も帝釈天の網の玉の如く互いとけあうあり方を即身という、と述べられた。わが身は仏身であり、仏身はわが身、衆生と仏は互いにうつしあう世界。これこそが密教で言う悟りの境地ではなかろうか。
 このように弘法大師空海は、従前の大乗仏教(顕教)においては、人間が成仏するには三劫というとてつもない時間を要するとするのに対し、密教ではすぐに成仏できるという独自の思想を述べられたにとどまらず、その宣布の過程において宮中で即身成仏を実践され、このことが真言密教布教の拡大の大きな要因となった。またこの思想によってインドから中国を経て日本に伝えられた中期密教は、ここにその完成をみたことになるといえよう。


[i] 村上保壽著、「密教思想と現代―弘法大師の思想を中心にー
」、高野山大学通信教育室、2004年、5頁。
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大乗仏教の諸思想と密教的展開について
―大乗仏教から密教へと連なる菩提心 『大日経』を中心にして―
1.はじめに
 弘法大師空海は、数々の思想を展開したが、その中でも思想的仕上げと言っても過言ではないものが、『秘密曼荼羅十住心論』で説かれた十住心の思想である。この十住心の主たる典拠となったのが、『大日経』における「住心品」であり、不空著作の可能性が高い『菩提心論』であった。そこで、本レポートではこれらの典拠に共通する思想である菩提心をキーワードにして、以下設題に答えたい。
2.大乗仏教と密教の関係
先ずは大乗仏教と密教の各々の起こりから考察したい。大乗仏教は、第二回目の結集の結果、保守派から分かれた大衆部の流れから生まれたものである。この原因は、部派仏教が、あまりに戒律や教法にこだわった結果、1.仏になれるのは、釈尊という1人の特別な人物に限られる、と考えたこと、2.自利自覚、すなわち自分だけが救われ悟ることに重点を置き、他を救い悟らせるという大衆の救済を疎かにしたこと、3.出家主義、すなわち悟りを開く為には僧侶にならなければならないとし、大衆の信仰活動に重きを置かなかったこと、4.議論を重んじ実践活動を疎かにしたこと、等が挙げられよう。これに対して大乗仏教運動を起こした勢力は、ブッダ釈尊の知恵と慈悲を信じ、菩薩道に精進すれば、本来衆生は仏性を有するが為に誰でも成仏できると、釈尊精神復古を訴え、まさに部派仏教の欠点を裏返した特徴をもつ大乗仏教を成立させた。密教はこの大乗仏教の特徴を基盤に、土着の神々や、呪文や祈祷といった現世利益を願う民間信仰の要素も取り入れて成立することとなる。
3.『大日経』の「住心品」にみる菩提心
密教の歴史を振り返ると、その流れの中心となるものの一つに菩提心がある。また密教の歴史においてそれの考察や成就に至る実習、その体系付けは大きな位置を占める。それらの端緒となったのが『大日経』において説かれる菩提心思想であった。特に「住心品」においては、それまでの大乗仏教の特徴的な思想をも著述しているので、ここでは「住心品」が菩提心をどのように著述しているのか見てみたい。
それより以前大乗仏教においては、「上求菩提、下化衆生」すなわち、上を向いては悟りを求める姿勢を失わず、同時に下に向っては苦しむ衆生の救済に全力投球を行う[i]、という意味の言葉が存在した。更に後期の大乗仏教において菩薩は、1.空、すなわち菩提心、悟りを求めようとする心と、2.悲、すなわち衆生の苦しみを見るに忍びず、その救済に向うことの両方を持ちつづけなければならないという、空と悲の双修がその教学において主張された[ii]
これらの言葉や主張は大乗仏教の特徴的な思想であるが、それを密教的に展開させたのが、『大日経』であった。この経典は、真理そのもののあらわれである法身すなわち大日如来が、弟子の質問に答えて真理を説く、という形をとっており、そのやりとりの中心となるのが、一切智、すなわちありとあらゆる知恵を体得する絶対的な知恵を獲得する方法やその根拠、にある。全三十一品(章)あるうち、第一章にあたるのが「住心品」である。なかでも「住心品」中に説かれた、「三句の法門」と言われる三句説は『大日経』の思想を代表しており、執金剛秘密主が如来に対して、仏の知恵とは何か、と尋ね、それに如来が次の三句を答える形で叙述している。
菩提心を因となし、
悲を根本となし、
方便を究竟とす。
これの解釈は密教の教義の成立にあたり大きな役割を果したといえるが、それは、因を種子に、根本を樹根に、究竟を果実に例えて、「菩提心という種子が芽を出し、その根である大悲の心によって育まれ、果実たる方便が多くの衆生を救済することが究竟の目的となる。」とする[iii]。そして、この全てのはたらきをもつものを一切智とした。すなわち、菩提心を行動の原因とし、大悲を動機とし、実践活動を通してこそ結実するというのである。そして「三句の法門」を実践して初めて一切智を獲得し、悟りが開けると説くのである。この、実践活動に重きをおいたところが、大乗仏教と異なる、密教的展開を示した大きな特徴であった。なぜなら、菩提心、大悲は先述したとおり大乗仏教中にも見られたが、実践活動があって初めて結実するという思想は、ここで展開された初めての思想であったからである。菩提心があっても実践活動なくしては、その価値を失うという考は、今までの大乗仏教が、密教へと展開する上で重要なポイントであった。
4.まとめ
 以上菩提心をキーワードに大乗仏教の思想が密教へ変化を遂げたところを考察した。冒頭で述べた弘法大師空海もやはり実践活動というところに重きをおかれ、『秘蔵宝鑰』において、第十住心に至るには、仏の教えを議論し、経典を読むだけではなく、自ら行動することが大切、と説かれている。


[i] 松長有慶著、「密教」、岩波書店、1991年、195頁。
[ii] 松長有慶著、前掲著、196頁。
[iii] 田上太秀著、「菩提心の研究」、東京書籍、1990年、444頁。
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インドの諸宗教文化に見られる密教の諸要因について
―密教の教えと梵我一如思想ー
1.はじめに
 弘法大師空海は、その書物『即身成仏義』において、「六大無礙にして常に瑜伽なり 四種曼荼各々離れず 三密加持すれば速疾に顕る」で始まる二頌八句の詩を挙げて、その思想の大きな特徴である即身成仏について語られた。すなわち、「仏と人との間でなされる3つの働きを加持することにより、宇宙の根源仏である大日如来と一体になり、成仏を可能にする。」と述べられたのである。
 そこで本レポートでは特に、「大日如来と一体になる」というところに着目し、掲題のごとくテーマを設定し、以下説題に答えたい。
2.密教とは
 そもそも弘法大師空海が唐より持ち帰られた密教とはどのような教えなのであろうか。
先ず、単に密教と言っても、「広義の密教」と、ここで考察しなければならない「仏教内の密教」に分けねばならない。
先ず「広義の密教」であるが、一般大衆から秘密にされており、代々限られたものだけにその奥義が受け継がれてきた宗教全般を指し、神秘的な宗教や宗派の全てはこれにあてはまる。つまり、洋の東西を問わず密教なる宗教が存在し、呪術や魔術から錬金術に至るまでが、総合的にこれに含まれる。
そしてもう一つは、大乗仏教の流れを汲む秘教である「仏教内の密教」であり、日本では、弘法大師空海を祖とする真言密教と、最澄を祖としその後弟子によって完成された天台密教がそれにあたる。その他にも雑密と呼ばれる初期の密教もあるが、多くの場合、真言密教を指している場合が多い。 
それではここで考察されるべき密教とはどういう性格をも持つのか。それは、一言でまとめると、1.神や仏などの聖なるものと、2.我々人間が、我々の内面、或いは全体において一体になるという考え方である。すなわち聖なるものと人間との神秘的な合体を実践しようとするのが密教の柱となのである。
また密教は文字通り秘密の仏教である。その秘密は、弘法大師空海が、『弁顕密ニ教論』で説かれた通り、「秘密には二義あり」すなわち、1.大日如来の持つ秘密である如来秘密と、2.衆生の持つ秘密である衆生秘密のニつに分けられる。
如来秘密とは、大日如来という仏だけが熟知していて、人間にはおいそれとわからない秘密である。というのは、大日如来は内なる悟りを秘めて、その境地を容易に詳らかにしない。だからその境地は容易に覗うことが出来ないからである。
これに対し衆生秘密とは、人間は誰でも仏性を持っているが、その本性を自分の無知や煩悩で覆い隠しわからなくし、本来秘密ではない仏性を自分で秘密にしているから秘密となる。
さて先述のように密教は、仏教の中のから発展を遂げた、一つの仏教の流れである。しかしながらその歴史的背景を辿ると、密教思想の源流はインド文明の夜明け以前の、人々のいのちの営みにまで遡り、今もそこへつながる。そこで次項では、密教と切り離すことのできないインドの諸宗教文化の中から特に梵我一如の思想にスポットを当てて、密教とのつながりを考察したい。
3.梵我一如思想とは
密教は原始仏教から時代を下って大乗仏教から派生した教えではあるが、先述のようにその源流は、仏教発祥よりも古く、その考え方自体は、紀元前十二から十三世紀にまでさかのぼり、バラモン教と切り放すことの出来ないインド神話中にその萌芽を読み取ることができる。この「インド神話前期」ともいうべきこのバラモン教の隆盛期に誕生した、密教の根元たる概念が梵我一如思想であった。
この梵(ブラフマン)とは大宇宙を支配する原理のことで、一方の我(アートマン)とは個体を支配する原理をさす。よって梵我一如とは、「梵、すなわち宇宙と、我、すなわち人間は一つの如し」という意味である。つまり梵我一如思想とは、簡単に言うと、「宇宙と人間の本質は一つである」という考え方なのである。
この思想の根本理念をまとめると次のようになる。「たった一つの真理があり、それ以外のこの世で見る諸々の現象はマーヤ―(幻影、幻覚)である、とするものである。人が真実の己れを悟れないのは無知であり、真の英知を有していないからである。離れて見える自己と絶対者ではあるが、両者の間に何らの区別はなく、両者は実は一体なのである。ただ無知によって両者は二元的に離れたように見える。」
4.まとめ
以上、弘法大師空海の即身成仏の考え方を端緒として、密教の考え方、そしてその根源である古代インドの梵我一如思想を概観した結果、新しい仏教である密教の教えは、古代インドの梵我一如思想がその一要因として深く関わっており、それを背景に密教が成り立つことが確認できた。よって密教を研究するにあたっては、そのプロローグとしてインドの宗教文化の学習は不可欠であろう。


K・C・チャクラヴァルティ著、橋本芳契・橋本契訳、『古代インドの文化と文明』、東方出版、1982年、251、252頁。
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ここでは、おへんろ道に咲く1輪のお花になりたいまおが、おへんろとお花のことを想い、綴ります。
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