へんろ道に咲く花1輪・・・そんな花になりたい・・・
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遂にやってきました、研究発表会。一応の体裁は整えた資料は準備し、先生からも、このままいけ、と指導は受けてるものの、これほど緊張した日も初めて…。おまけに発表の順番はラスト。なんで最初なんだ、と事務に聞いたら、遠距離の人から順番にしたと。なるほどトップは北海道の人らしい。
おまけに質疑応答も含めて一人当たり30分の発表時間は最初から延長となり、3番手が30分も発表したこともあって、順番が来たときは既に1時間も遅れが。
で、回復運転。20分の発表時間を14分(後で先生に言われた)でやっつけ、というか緊張感絶頂で相当早口で発表したらしい。
他の発表者のレベルが低かったおかげで、ていうか研究対象とかテーマとか方法論まで指導受けるとかありえへんし、先生曰く致命的なミスはなかったが、いつもは単なる教師と思ってる大学の先生、さすがは専門家であって想像もつかないような突っ込みを数点ほど受けました。その場はへいへい、と言って切り抜けたものの、なんで突っ込まれたかわからず、後で先生から指導を受けて無事に終了!
外へ出ると高野山は既に春の陽気でした。
おまけに質疑応答も含めて一人当たり30分の発表時間は最初から延長となり、3番手が30分も発表したこともあって、順番が来たときは既に1時間も遅れが。
で、回復運転。20分の発表時間を14分(後で先生に言われた)でやっつけ、というか緊張感絶頂で相当早口で発表したらしい。
他の発表者のレベルが低かったおかげで、ていうか研究対象とかテーマとか方法論まで指導受けるとかありえへんし、先生曰く致命的なミスはなかったが、いつもは単なる教師と思ってる大学の先生、さすがは専門家であって想像もつかないような突っ込みを数点ほど受けました。その場はへいへい、と言って切り抜けたものの、なんで突っ込まれたかわからず、後で先生から指導を受けて無事に終了!
外へ出ると高野山は既に春の陽気でした。
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はじめに
空海は、弘仁七年(八一六)六月十九日、嵯峨天皇に対して、高野山の地を賜りたいと請願された。天皇の許可は翌月に下り、ここに高野山の歴史が始まった。以後、高野山は幾多の栄枯盛衰を経て、現在では、世界的な宗教都市としての地位を揺ぎ無いものとしている。ここでは設題の留意点に従い、高野山の開創について論じてみたい。
一、開創の目的と高野山が選ばれた理由
まず、空海はどのような理由で高野山を開創されたのであろうか。唐より帰国後の空海は、嵯峨天皇の庇護もあって、東大寺や乙訓寺の別当を任ぜられるなどその地位を高められていた。そして京の都の奥にある高雄山寺を住房として、済世利人の願いのもと、全国各地に布教の旅を続けられていた。その一方で、空海には、密教の基本である修行と修学の場を作りたい、そこでいつの世までも人を救い、利を施すための人材養成を行いたい、という願望がおありだった。そのような聖地として住房のある京の都は不適当であった。どこか都の栄華や喧騒を離れた場所でなければ、弟子達の教育は行いがたかった。密教の道場としては、都から離れた深山が相応しかった。そのような道場を築くべく理想の地を求めて遍歴する空海には、求聞持法の修行時代に訪れた紀伊の国の高野山があった。これらのことは弘仁七年(八一六)六月十九日に空海が嵯峨天皇に提出された上表文から明らかである。そこでは、
金刹銀台は櫛のごとく朝野に比び、義を談ずる竜像は寺毎に林をなす。法の興隆は是において足んぬ。但だ恨むらくは高山深嶺にし四禅の客乏しく、幽藪窮巌に入定の賓稀なり。実に是れ禅教未だ伝わらず、住処相応せずが致すところなり。今、禅教の説に准ずるに、深山の平地尤も修禅に宜し。
空海、少年の日、好んで山水を渉覧せしに、吉野より南に行くこと一日、更に西に向かって去ること両日程にして、平原の幽地あり。名付けて高野と曰う。計るに紀伊国伊都郡の南に当たれり。四面高嶺にして、人蹤、蹊道絶えたり。今思わく、上は国家の奉為に、下は諸々の修行者の為に、荒藪をかり夷げて、聊か修禅の一院を建立せん。
とあり、「仏法の真の興隆は単に教義を論ずるだけでなく、自ら深山
幽谷にあって瑜伽の実践による真理の体得こそ肝要である。いま経
軌(筆者注:経典と儀式法規)によって見るに、紀伊伊都郡の平原
の幽地、高野山こそ、もっとも修禅にかなった地である」[i]と、
言われたのである。こうして、密教の道場として今日まで続く高野
山の歴史が始まることになった。
二、高野山開創にまつわる伝承の検証
高野山で最初に拓かれたのは壇上伽藍界隈であり、ここには丹生津姫命と狩場明神が祀られている[ii]。このことは、この両明神が、高野山の開創に深く関わっていることを示している。それではこの両明神は、どのように関わっていたのであろうか。
『今昔物語集』によれば、弘仁七年(八一六)六月ごろ、適地を求めて遍歴中の空海は、大和国宇智郡で、南山(高野山)の犬飼と名乗る猟師から高野のことを聞き、その猟師の二匹の犬に導かれて高野山へと向かわれる。そしてこの猟師は、高野山の地主神、狩場明神だったという。
次に空海は、紀伊国との境で出会った一人の山人に伴われ、高野の地に到着されたとき、その山人から高野の領地を譲り受けられた。この山人は高野の地主山王(丹生明神)の化身であったという。そしてそこに林立する檜の枝に、唐は明州の浜から、「伽藍に建立するのにふさわしいところがあれば、教えたまえ」と祈念して投げた三鈷が突き刺さっていたという[iii]。
それはさておき『今昔物語集』とは、インド、中国、そしてわが国の仏教説話や民俗説話を集めた説話文学である。説話文学であるからしてそれは、読み手の興味を惹くために、意外性や異常性を有しているものの、その話の内容は、事実または事実と信じられてきたことを、口承によって伝えられてきた[iv]、という性格を持つ。すなわち、面白さを引き出すために文学的に脚色されているところがあるとはいえ、その話の出所は伝説ではなく、事実もしくは事実と信じられてきたものなのである。そうすると、『今昔物語集』に取り上げられているこの高野山開創の説話の出所もそうでなくてはならない。するとこの話のその出自はどこにあるのか。ここで俎上に上ってくるのは、狩場明神と丹生明神の存在である。この存在に関しては、夫婦である、親子であるなど、さまざまな見解があるが、ここでは事実に極めて近いと思われる過去の見解を上げて論じてみたい。
先ず狩場明神のほうであるが、この話を、奥州山寺の開創と深く関わりをもつ磐司磐三郎の説話と同様のタイプだ[v]、とする説を取り上げたい。ちなみに磐司磐三郎の説話とは次のような話である。
時は奇しくも高野山開創の時と相前後する頃、比叡山延暦寺の僧慈覚大師円仁は、諸国行脚の途中山深い奥羽の地に布教をしようと二口峠(磐司岩)を旅していた。大師は奇岩がそそり立つ壮観な景色(現山寺)に心を引かれるとともに、ここに山寺を築こうと決意した。ここで土地の主である磐司磐三郎と面会、布教活動の許しと土地の借用を願った。磐司磐三郎は大師の功徳と説法に感動、慈覚大師の開山に全力を尽くして助力したため、のちに地主権現として祀られた、という。
つまり、狩場明神その人は、磐司磐三郎が山寺界隈の狩人の首領であったと同様に、高野山に狩猟権と祭司権を持つ山人で、実際に高野山を支配する司祭者であった。そこに、高野山の地を密教の道場とされたい空海が訪れて、この山人との間に、高野山の利権に関わるなんらかの交渉や契約が行われた事実が、磐司磐三郎のケースと同じように、その後狩場明神として祀られ、今日のような高野山開創伝説が生まれた、と考えられる。
ここでこれまでの考察を整理すると、
① 空海が密教の道場に相応しい土地を探して高野山近辺を遍歴していたとき、高野山の狩猟権と祭司権を持つ山人がいて、高野山を宗教的に支配していた。
② 空海がこの山人となんらかの形で対面し、高野山に密教の道場を建立すること希望を打ち明けあけたところ、その希望に山人が応じたこと。
③ このような経緯からこの山人は高野山開創になくてはならなかった人物であり、後に神格化され祀られた。
この三点が出自ではないかと考えられる。こうした事実が、わが国の仏教説話の一つとして『今昔物語集』に収められるにあたって、読者を魅了するために脚色されて、現在伝わる形になったものと推測される。つまり、高野山の領地を空海に譲ったのは、当時高野山を宗教的に支配していた山人にほかなるまい。
そうなると、丹生明神の方はどうであったのか。これを解く鍵として高野山開創にあたっての空海と紀伊国造家、紀伊国造家と丹生氏の関係がある[vi]。そしてその根拠となるのが、高野山下賜の勅許を得られた空海が、紀伊国在住の有力者に宛てて、高野山開創の助成を依頼した一通の書状である。以降テキストに依拠しつつ考えてみたい。
この書状には、高野山開創を考察する上で重要な、次のようなポイントがある。
① 空海の先祖である太遣馬宿禰は、この書状の宛て人の祖である大名草彦のわかれであること。
② 空海が、密教の道場を建立したく、その土地として、高野山が最適、と打ち明けられていること。
③ そこで嵯峨天皇に高野山の下賜をお願いしたところ、許可がでたこと。
④ 高野山の開創にあたっては、この宛て人から援助を受けたいこと。
以上の点から導き出されるもっとも重要な事項は、この宛て人が誰かということになる。この宛て人に関しては、過去いろんな見解がなされてきたが、最も有力なのは、それぞれ大名草日彦を先祖にいただく紀伊国造家の紀直氏か、あるいはそれと祖を一にする丹生祝家の丹生氏である、する見解である[vii]。
この点について武内孝善先生は、この宛て人を丹生氏とする方がより現実味を帯びる、述べられている[viii]。
その理由として武内先生は、地理的な面を挙げられている。すなわち紀伊の国に一大勢力を誇っていた紀直氏の本拠から高野山の地理的な距離を考慮すると、それは助力を願い申し出るには遠すぎる。それに比して丹生氏は高野山麓の天野に鎮座する丹生津比売命を祭祀していたため、実際に当時未開の高野山へ伽藍を建てるという、一連の困難を考えた場合、高野山から近い、丹生氏に助力を申し出られた方が現実的であろう、と武内先生は述べられている[ix]。また山陰加春夫先生は、『今昔物語集』の高野山開創説話は、丹生津比売神社の、十二世紀当時の中核的な信仰圏を暗示していると考えられる、と述べられている[x]。すなわち高野山を含む紀伊国伊都郡の南の山間部は丹生氏の宗教的支配の及ぶ地域であったわけである。これらの先行研究から、宛て人は極めて丹生氏である可能性が高い。
しかしながら現在のところそれを裏付ける決定的な資料に欠け、いずれであるかを断定するには、きわめて示唆にとむ。
ただ過去の様々な研究から推し量ると、高野山の伽藍建立にあたっては、空海に有力な援助者が存在し、その援助があって伽藍が建立されたという事実に間違いはなく、そのときの助力貢献によって後に丹生明神という名称を与えられたと考えられる。
まとめ
昨年宗派などを超え近畿二府四の社寺が結束して神仏霊場会を設立した。この設立には、「明治政府の国策によって壊された神仏共存の宗教体制を見直し、民衆レベルでの日本人の信仰観を復興させよう」という狙いがあるが[xi]、その奥底には「自然による救い」という古来我々の祖先たちが抱いていた信仰心が存在するのではないか。空海はそうしたことをよくご存知であって、雄大な自然を有する高野山に密教の道場を築くと同時に、自然を神として畏敬の念を抱く当時の民間信仰をも大切にされたのであろう。
[i]高木訷元著、「空海 生涯とその周辺」、吉川弘文館、一九九七年、二〇一頁
[ii] 松長有慶、高木訷元、和多秀乘、田村隆照著、「高野山 その歴史と文化」、法蔵館、一九九八年、一六二頁
[iii] 武内孝善著、「空海素描」、高野山大学通信教育室、二〇〇四年、二四七~二四九頁
[iv] 下西忠著、「密教と説話文学」、高野山大学通信教育室、二〇〇八年、一頁
[v]松長有慶、高木訷元、和多秀乘、田村隆照著、前掲著、一六四~一六五」頁
[vi] 高木訷元著、前掲書、二〇四頁
[vii] 高木訷元著、前掲書、二〇六頁
[viii] 武内孝善著、「弘法大師伝承と史実 絵伝を読み解く」、朱鷺書房、二〇〇八年、一七七~一七八」頁
[ix] 武内孝善著、前掲書、一七七~一七八頁
[x] 高野山大学選書刊行会編、「高野山大学選書第一巻 高野山と密教文化」、小学館スクエア、二〇〇六年、二七頁
[xi]「日本人本来の信仰は」 朝日新聞二〇〇九年一月三〇日付記事
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はじめに
空海と最澄の交友史を考察する上でその直接の出発点となる資料は、大同四年(八〇九)に最澄が空海に宛てた、経典類の借用の書簡であるが、その理由を問うてみると、二人の渡唐からその答えが現れる。よってここでは二人の渡唐からその交友について論じていきたい。
一、二人の渡唐
先ずは空海の渡唐についてその経緯を見てみたい。過去をさかのぼると幼きころより仏心を抱かれ、伯父の勧めで京の大学に入学された空海であったが、その仏心はますます大きなものとなり、ついに官僚になるための大学を去り、仏門へと入られることになる。その後虚空蔵求聞持の法を修するために、ひたすら修行の日々の後、遂に室戸岬にて夜明けの明星が飛び来て、求聞持の法が結実する。この際の神秘的な体験が、渡唐に向けての一つ目の契機になると考えられる。というのもこれがきっかけとなって本式に出家され、僧空海が誕生し、そしてこの神秘的な体験がいかなる世界であるかを、その後探求する道に入られたからこそ、その後の『大日経』との出会いにつながるからである。
さて、神秘体験の世界を探求される過程で『大日経』を発見された空海であったが、精読するもその奥義は当時の空海をもってしても明らかにはならなかった。というのも、『大日経』の内容は、密教の奥義を極めた人から直接面授されないかぎり読んだだけではわからない行法が多数載っているからである。また面授してくれる師も当時の日本には存在しなかった。ここが渡唐の二つ目の契機になると考えられる。すなわち日本では解決できない問題であるから渡唐し、しかるべき人から直接面授してもらおう、という決意へとつながるからである。そうして慌しく渡唐される空海であったが、唐へ向かう四隻の船団の第二船に、天台宗の開祖である最澄が乗っていた。二人は奇しくも同時期の遣唐使船で渡唐することになったのである。時は延暦二三年(八〇四)のことであった。
次に最澄のほうであるが、こちらも幼少時より「志仏道を宗と」しており[i]、十二歳で近江国の僧行表の元に身を投じ、十五歳で得度を行った。その後空海同様山林内に修行の地を求め、比叡山に草庵を結ぶ。この間に最澄が見出したのが、当時まだ日本に受け入れられていなかった天台宗の教えであった。ここにも空海と同じような、最澄の渡唐の素地が見出せる。
その後天皇のために病気平癒の祈祷を行う内供奉に任ぜられ、また延暦二十一年(八〇二)には、高雄山寺で開かれた法花経の説法に出講して、天台主要典籍の講義を行うなどした。その結果時の天皇、桓武天皇の庇護を受け、天皇をして天台教学の興隆を諮らせしめ、ひいては最澄の、渡唐の道を開くこととなった。
さて、同じ船団で唐へ向かった二人であったが、空海の方は乗船した第一船が進路を大きくはずれ予定地のはるか南に着岸、その後二ヶ月かけて長安へ到着、ここで青龍寺の恵果との出会いが待ち受けていた。この青龍寺において恵果から伝法灌頂を受けられた空海は、恵果の指示どおり、二十年の唐滞在予定をわずか二年で切り上げ、多数の経典と共に帰国される。
一方最澄は、比較的予定地の近くに到着後、長安には向かわずすぐさま天台山へ向かう。それは最澄の目的が、天台教学の修学であったためである。ここで天台教学を授けられた最澄は、こちらは更に短く、わずか八ヶ月で所期の目的を達成したと判断、そのまま長安に寄ることもなく日本へと帰国する。
このような唐における二人の異なった行動が、その後の二人の交友に大きく影響することになる。
二、空海の『請来目録』
大同元年(八〇六)年に帰国した空海は、二十年という留学期間をわずか二年で切り上げて無断で帰国した重罪の所為か、または桓武天皇の崩御に伴う、朝廷内の一連の出来事の所為か、主たる原因は定かではないが、入京の許可を得られないため、四年近くの長きに渡って大宰府は観世音寺に足止めされることになった。
その間大同元年(八〇六)十月に空海は、唐から持ち帰ったおびただしい数の品々の目録を作成されている。これが『請来目録』である。空海はこの目録に上表文を添えて、朝廷へ提出されたが、それでも入京の許可は得られなかった。一方先に帰国していた最澄は、この目録に目を通す機会を得て、正当な中国密教経典の並ぶその内容に驚くことになる。そして最澄は、桓武天皇から密教の僧を養成するように命ぜられていたこともあって、いち早く空海と、空海が請来された品々を必要としたのである[ii]。
三、二人の出会い
大同四年(八〇九)二月三日、空海は、最澄に対して名書(名刺)を捧呈されたと伝えられている(『延暦寺護国縁起』巻下、『天台霞標』二編巻之一)[iii]。しかしながら、この名書は、後世天台宗の僧侶の手になる偽文書と考えられるので[iv]、実際に二人の最初の交友の証を示す、現存する最も古いものは、大同四年(八〇九)八月二四日に、最澄が空海に送った、十二部五十五巻に及ぶ密教経典借覧依頼の書簡である[v]。当時空海は、社会不安の増大を憂慮されており、嵯峨天皇即位の知らせを聞かれると、入京許可を待たずに、縁の深い和泉の国に移動、ここで大同四年(八〇九)七月に入京の許可を得て、高雄山寺に入られたばかりであった。すなわち最澄は空海入京の知らせをきくやいなや、すぐに書簡を送ったことになる。この頃の最澄は桓武天皇という強力な擁護者を失ったところへ、法相宗の圧力などもあって天台宗の得度者が次々と比叡山を去り、そこへ空海が入り込んでくる[vi]、という非常事態に直面しており、最澄としてはそれだけに一刻も早く密教関係の経典が必要だったわけである。
この書簡は、それが送られる以前に空海とのなんらかのやりとりがあったのでは、と推測されるほど[vii]、簡単な内容であったが、空海は快くそれらの経典類を貸し出された。これを嚆矢として、最澄は次々と借用を依頼、空海はそれに応えられる、というお互い対面のない、経典類の貸し出しという形でしばらく交流が続く。
四、行き違った灌頂
その後空海は、弘仁元年(八一〇)に東大寺の別当を任ぜられ、次いで翌年には旧都・長岡京の乙訓寺の別当も任ぜられるなど、朝廷の信頼を厚くされていった。その乙訓寺に最澄が空海を訪ねたのが、弘仁三年(八一二)十月のことであった。ここに二人は、初めて対面することになる。この面会でのポイントは、灌頂に関して空海が正式に最澄からの申し出を受諾し、実際に灌頂伝授へとつながったことである。その結果、最澄への灌頂が、十一月十四日に金剛界の灌頂が、次いで十二月十五日に胎蔵界の灌頂がおこなわれた。ところがこの灌頂が、二人の間に溝をもたらす要因となる。
というのは、この二回に渡って行われた灌頂は、仏さまと縁を結ぶための結縁灌頂であったからである。この灌頂は、入門を志す者であれば誰でも受けることが出来る。ゆえに最澄が希望していた僧侶向けの伝法灌頂とは大きな隔たりがあった。
空海がわずか半年で伝法灌頂を受けたこと知った最澄は、自分もすぐに伝法灌頂を受けられるものと考えていたが、空海から「少なくとも三年は勉強を」と伝えられ、それでは空海のもとに留まることは出来ず、代わりに弟子を遣わして、比叡山へと帰ってしまう。
この頃から二人の間がおかしくなり始めた。最澄が借りた経典類をなかなか返却せず、空海が返還督促状をしばしばしたためているのもその現れである。そうして二人の間を決定的に裂く要因となった出来事が二件起こった。一つは最澄の片腕であった弟子の泰範が空海の下に弟子入りしたこと、もう一つは、最澄が『理趣経』の注釈本である『理趣釈経』の借用を申し出て、それを空海が断ったことである。
五、泰範について
泰範は空海の十大弟子の一人であるが、もとは最澄が後継者と決めていたほど最澄にとって重要な弟子であった。一時はその信頼の余り妬みをかって比叡山から遠ざかる時期もあったが、その後最澄の勧めで、すなわち比叡山へ帰ってしまった最澄のいわば身代わりとして泰範は高雄寺へ上り、空海から灌頂を受ける。そして弘仁四年(八一三年)三月一六日に行われた灌頂の後、泰範はこのまま空海のもとに留まることを宣言する。驚いた最澄は、その後何度も比叡山へ戻るよう促すものの泰範はそれに従わず、ついに空海の弟子となってしまった。このことは空海、最澄両者の間に出来始めていた溝を、より大きくする結果となってしまった。
六、『理趣釈経』の借用
『理趣経』は、非常に誤解を招きやすい経典であり、修行なくして読むには危険な書物であった。そこで空海はこの経典の特殊性から、不空訳の最も重要な注釈書である『理趣釈経』を秘典としていた。この『理趣釈経』の借用を最澄は申し入れたのである。これに対して泰範の一件もあって、空海は長い断りの書簡を出された。この結果2人は袂を分かつことになってしまう。このことは両者亡き後、東密と台密の相克を生ぜしめることになる。
まとめ(二人の思想観の相違)
さて、最澄は、天台法門と真言法門との間には優劣を認めない円密一致の立場をとっていた[viii]。そこで密教といえども、経典類を熟読すれば、自ずと理解できると考えていた。一方の空海は、仏法に顕密二教の別ありとされ、真言ひとりを密教とし、天台法門は顕教の一つとみなされていた[ix]。そして密教は定められた修行を行い面受によってしか修得できない、と考えられていた。借用のごたごたや、灌頂の誤解など、決別の直接の原因に対して、その根底には二人の間の明確な思想的相違が存在したのである。とはいうものの、宗教をもって衆生を救いたいという、根本的な思いは両者とも同じであった。それだけに両者が決別しなければ、わが国のその後の歴史地図も相当変わったものになったに違いない。
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遍路日誌
ついに最終日に突入。今朝も4時に目が覚めて、6時に朝風呂へ直行。誰もいない浴場を貸しきり、あっちの湯こっちの湯と入って完全にリフレッシュ。ただ上がった後、正しいお風呂入り方とかいう注意書きがはってあり、かけ湯は足からゆっくりとか書いてあったのでがっかりしました。
71番はひどい階段の上と聞いていたので、荷物の内基本になるザックを宿に預け、付属となる巡礼バックだけを持って登りました。確かに階段が続き、境内に入ってからも108段の階段とかがありましたが、基本のザックがないので非常に楽でした。
本堂は四ツ元某とかが中に入れてもらってた岩場のある険しい場所に建ってますが、なんとモノレールがあって役僧はそれに乗って下から上がってきて、お賽銭を数えてました。
大師堂は逆に寺務所と一緒になった建物の中にあり、正座してお大師様を参拝できました。
また荷物を一つにまとめて72番を目指します。気持のいい竹林の中、いかにもお遍路道らしいところを行きます。竹が風で揺れてカラカラと音をたてます。山を降りるとため池の周りを歩きます。とりが鳴いて、梅が咲き、日本の原風景が。反対側では讃岐平野を望んでそのむこうには瀬戸内海と瀬戸大橋が見えます。いかにも讃岐らしい光景です。
72番は曼荼羅寺といい、きらびやかなイメージを持ってまたしたが、実際には62番と同じくらいコンパクトなお寺でした。
ここからわずか600m、10分足らずで73番出釈迦寺です。少し丘を登ったところにあるので、眺めがいいです。更に山の上には奥の院がありますが、お大師様が飛び降りただけあって相当高いところに建物がみえるのでこのまま74番へ。但し西行庵と書かれた案内があったのでそっちへ行ってみると、これも大変坂を登るので途中で挫折。
73番では60番でうちを追い抜いた女性の方と交換。向こうも追い抜いたのに何故、という感じだったので、ズルしたことを話すと、それが正解、雲辺寺の道は雨でぐちゃぐちゃだった、と言ってられました。
74番への移動が、今回最後の遍路道らしい畦道をいきます。水仙に菜の花ももう見納めです。74番も小さなお寺で、ここで納経したことで長らく白紙だった75番迄の大半の部分が黒く埋まりました。
そして3年半ぶりの75番善通寺。あの時は般若心経すら読めなかったですが、今ではフルでしかもそらで言える迄になりました。とりあえず大師うどんでお昼にしてから巡拝。
さすがに広いです。西と東で境内が別れており、どちらかといえば東の本堂より西の御影堂、いわゆる大師堂のほうが立派。ただ東には五重塔や、ご神木もあり。
2巡目の納経は、朱印を重ねて押すだけで終わりです。これが何回も回った人だと真っ赤になるそうです。また、1巡する毎に納経帳を新しくする人もいるそうで、とりあえず今回は重ね印にしました。捺してくれたのは、奇しくも前回と同じ人でした。
これで今回のお遍路は終了。直ちに白衣をたたみ、笠もザックにくくり、鈴もはずし、俗世に戻します。境内に土産もの店があったのでいくつか買い求め、駅から多度津迄普通電車に乗り、ここから今回何回も世話になったしおかぜいしづちにお名残乗車でお四国を離れました。
さあ、これで40番~52番の南予と松山地区、それに今回パスした雲辺寺と67番、それに最後の大窪寺だけになりました。うまくいけば年内の満願も見えてきました。今回は土佐とは違ってほとんどが人跡のあるところを歩いたのと、天気には恵まれなかったものの、やはり春という季節からか、ものすごく気分よく終わることができました。土佐の時には当分遠慮したいと思いましたが、今回は時間さえもらえたら今すぐにでも戻りたい気分です。
71番はひどい階段の上と聞いていたので、荷物の内基本になるザックを宿に預け、付属となる巡礼バックだけを持って登りました。確かに階段が続き、境内に入ってからも108段の階段とかがありましたが、基本のザックがないので非常に楽でした。
本堂は四ツ元某とかが中に入れてもらってた岩場のある険しい場所に建ってますが、なんとモノレールがあって役僧はそれに乗って下から上がってきて、お賽銭を数えてました。
大師堂は逆に寺務所と一緒になった建物の中にあり、正座してお大師様を参拝できました。
また荷物を一つにまとめて72番を目指します。気持のいい竹林の中、いかにもお遍路道らしいところを行きます。竹が風で揺れてカラカラと音をたてます。山を降りるとため池の周りを歩きます。とりが鳴いて、梅が咲き、日本の原風景が。反対側では讃岐平野を望んでそのむこうには瀬戸内海と瀬戸大橋が見えます。いかにも讃岐らしい光景です。
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73番では60番でうちを追い抜いた女性の方と交換。向こうも追い抜いたのに何故、という感じだったので、ズルしたことを話すと、それが正解、雲辺寺の道は雨でぐちゃぐちゃだった、と言ってられました。
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そして3年半ぶりの75番善通寺。あの時は般若心経すら読めなかったですが、今ではフルでしかもそらで言える迄になりました。とりあえず大師うどんでお昼にしてから巡拝。
さすがに広いです。西と東で境内が別れており、どちらかといえば東の本堂より西の御影堂、いわゆる大師堂のほうが立派。ただ東には五重塔や、ご神木もあり。
2巡目の納経は、朱印を重ねて押すだけで終わりです。これが何回も回った人だと真っ赤になるそうです。また、1巡する毎に納経帳を新しくする人もいるそうで、とりあえず今回は重ね印にしました。捺してくれたのは、奇しくも前回と同じ人でした。
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さあ、これで40番~52番の南予と松山地区、それに今回パスした雲辺寺と67番、それに最後の大窪寺だけになりました。うまくいけば年内の満願も見えてきました。今回は土佐とは違ってほとんどが人跡のあるところを歩いたのと、天気には恵まれなかったものの、やはり春という季節からか、ものすごく気分よく終わることができました。土佐の時には当分遠慮したいと思いましたが、今回は時間さえもらえたら今すぐにでも戻りたい気分です。
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遍路日誌
高松は既に朝から雨。けど観音寺に着いた時には曇天ながら完全に上がっていて、やはりお大師様は見守ってくれてはると。ちなみに行きの特急の中に数名の遍路がいて、その内の一人は観音寺で降りたのでびっくり。
さて68番と69番は同じ境内に存在する札所として有名ですが、一体どうなってるのかと、行ってみたら、丘の中腹にほんとに同じ敷地に柵もなく、一つの境内然として各々の本堂と大師堂が建っていました。68番だけはかつて一段上の今は薬師堂になっているところが本堂だったらしく、建物が近代的でした。
しかし納経所は合理的に纏めてあり、一回で600円払って終わりです。その他に巡礼用品の店もあってグッズを見ると中々楽しい。
さて今日も昨日のダイヤの乱れで半日の予定を1日で行きますので、後は70番と14km歩くだけ。行き交う車のナンバーが香川になってるのを見て改めて、ああもうここは伊予ではなく讃岐なんだと。
70番は川沿いに1時間で到着。国宝の本堂に五重塔、ひろい境内、鈍い鐘の音。何をとっても渋いお寺です。で参拝者もおらずいい雰囲気だと思ってると団体がやってきて、丁度雨がまた降り出したので、本堂の屋根の下で退避。彼らが行ってから参拝しました。
雨はここでお昼をしている間に止んでくれたので、今晩の楽しみ温泉目指してレッツゴー!しばらく国道を行った後、旧道に入りました。いくつもの溜池に、低いこんもりした山の点在する風景。昨日迄の平地がなくすぐそこに雪を頂く高い山の続く伊予とはまるで風景が違います。途中からは陽もさして来て、最後の登りでバテたものの無事に宿に到着。天然温泉に豪華料理とこんなんで罰あたらないかしら。
さて68番と69番は同じ境内に存在する札所として有名ですが、一体どうなってるのかと、行ってみたら、丘の中腹にほんとに同じ敷地に柵もなく、一つの境内然として各々の本堂と大師堂が建っていました。68番だけはかつて一段上の今は薬師堂になっているところが本堂だったらしく、建物が近代的でした。
しかし納経所は合理的に纏めてあり、一回で600円払って終わりです。その他に巡礼用品の店もあってグッズを見ると中々楽しい。
さて今日も昨日のダイヤの乱れで半日の予定を1日で行きますので、後は70番と14km歩くだけ。行き交う車のナンバーが香川になってるのを見て改めて、ああもうここは伊予ではなく讃岐なんだと。
70番は川沿いに1時間で到着。国宝の本堂に五重塔、ひろい境内、鈍い鐘の音。何をとっても渋いお寺です。で参拝者もおらずいい雰囲気だと思ってると団体がやってきて、丁度雨がまた降り出したので、本堂の屋根の下で退避。彼らが行ってから参拝しました。
雨はここでお昼をしている間に止んでくれたので、今晩の楽しみ温泉目指してレッツゴー!しばらく国道を行った後、旧道に入りました。いくつもの溜池に、低いこんもりした山の点在する風景。昨日迄の平地がなくすぐそこに雪を頂く高い山の続く伊予とはまるで風景が違います。途中からは陽もさして来て、最後の登りでバテたものの無事に宿に到着。天然温泉に豪華料理とこんなんで罰あたらないかしら。